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コミック雑誌なんかいらない!のろくのレビュー・感想・評価

4.2
シュキナベイビナァ①

内田裕也アゲウィーク。北野武の暴力性に惹かれる方も多いと思うけど、その嚆矢は内田裕也だと思っている。眼が笑ってないんだよ。いつも虚空を見つめているようで。そしてあの甲高い声がますます「実」をなくす。甲高い声は哀川翔に、笑っていない目は北野武に受け継がれた。そう、日本が作ったアウトサイダー、それが内田裕也なんだ。

というわけでこの作品。テレビに力があったからこそ、テレビの暴力性を映した一作である。

とにかく何もなくても「テレビが正しい」。国民の声というおためごかしをバックにテレビはやりたい放題をしてきた。この映画では虚実が実に曖昧になっており、実際に三浦和義(ロス疑惑)が出てきたり、おニャン子クラブが困惑し、さらには当時問題になった豊田商事事件も映してしまう(これはフィクション仕立てになっているが)。そういえば日航機事故の映像もあった。

そこにあるのは「テレビ」だけが当事者から外れているという事実だ。テレビはいわば神の視点で(だからこの目の前で殺人が起きていてもテレビは助けない。いや此れ比喩でないんだ。実際豊田商事事件ではカメラの前で人が殺され、さらにはオウム事件だって村井は殺されたじゃないか)僕らの前に君臨する。そしてそれに疑問を抱かずに(この言葉は少し語弊がある。疑問を抱くことが悪いことだという共通の認識のもとにと言うのが正しいかもしれない)、今のいままでテレビはふるまっていた。傍若無人にだ。

内田はそこに葛藤する男だ。でもその葛藤を内田は簡単に見せない。葛藤は内田の暗い目の中に隠れている。内田の目はそのまま鏡になる。スクリーンを観ているお前はそのことに自覚的なのか、そして自覚しても行動はしないんだろ、お前は。俺は行動する。そう内田は語りかける(気がする)。サルトルのアンガージュマンではないが批判だけではいけない。行動しなければ。その後の内田の多少エキセントリックで(時にそれは滑稽ですらある)でも強い態度はその「行動」から来ているのかなと思う。

最後のセリフに痺れてしまった。ほかの演者が言ったら滑稽でしかないが内田が言ったら妙に響く。ずんと重くのしかかる。「I can't speak fuck'in Japannese」アナーキスト内田の面目躍如だ。

今テレビは終焉を迎えている。そしてそれに代わって「正論」(コンプラ)が時代を作っている。M・フーコーが言ったように世界が相互監視型の監獄社会になっている。個人が個人を縛る現在、それはまた幸せだろうか。

※1985年の映画だが当時の世相を知る意味でも非常に興味深い。映画を観ながら次はだれが出てくるんだろうという気持ちで観ていた。おニャン子くらぶが出てきたときはあまりの展開に笑って泣いた。当時国生さゆりのファンでした(今は違う)。

※この映画でのたけしの存在は大きい。冒頭でも語ったけどたけしと内田の共通点は「笑っていない目」である。今この「目」を出来る演者がなかなかいない。みんな「いい人」になってしまっているのが現状だ(綾野剛や鈴木亮平だって人の好さがにじみ出てしまっている)。それはこの「正しい」社会ではもう求められないものかもしれない。

※と思ったらリリー・フランキーがいた。最後の「笑わない目」の演者だと思う。
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