青乃雲

バルタザールどこへ行くの青乃雲のレビュー・感想・評価

バルタザールどこへ行く(1964年製作の映画)
5.0
長編作品を13本撮ったロベール・ブレッソンが、原作をドストエフスキーに求めた3本のうちの1つ。成熟期の恋愛小説『白痴』をベースとしており、『白痴』の基本ラインは、主人公ムイシュキン公爵とロゴージンの男2人、そしてナスターシャとアグラーヤの女2人による、四角関係の恋物語。

幼少時から、重度の癲癇(てんかん)をもつムイシュキン公爵は、成人するまでスイスのサナトリウムで療養していた人物であり、軽快したためロシアに戻ってくることになる。聡明な人間ではあるものの、そうした生い立ちもあって無垢(イノセント)に生きている。そして、恐ろしく深い洞察力を持っている。

彼がロシアに戻る際に頼った、将軍家の三女がアグラーヤであり、やがて彼女はムイシュキンに心を寄せる。いっぽう、ムイシュキンはロシアへの帰路の列車で出会ったロゴージンと、悲劇的な美女ナスターシャをめぐって三角関係となる。ナスターシャは、ムイシュキンの善良さや高潔さを愛しながらも、野蛮で情熱的なロゴージンの元へと走る。

そうした恋の鞘(さや)当てのなかで、ドストエフスキーならではの深い人間描写が織り成されていく。また、タイトルの意味合いは、ムイシュキン公爵の持病である癲癇(てんかん)の症状を指すと同時に、彼の無垢な心が人間社会のなかでは白痴的に映るという意味合いも込められており、さらには現代のキリスト像という暗喩にもなっている。



ロベール・ブレッソンが、『白痴』をどの程度まで原作としたのかは知らない。僕なりに思う対応関係は以下の通り。

ムイシュキン公爵:ロバのバルタザール(幼馴染のジャック、マリーの父親)
アグラーヤ:娘時代のマリー
ナスターシャ:成長したマリー
ロゴージン:不良のジェラール

この映画が真に描いているのは、娘マリーの変化それ自身のように思う。それは、ドストエフスキーの『白痴』に描かれるナスターシャと同様に、彼女を通して「無垢と野蛮」「善と悪」などの実相が浮かび上がるところがある。

彼女は、幼少期から娘時代を通して(所有者を転々とする)無垢なバルタザールをたいへん可愛がるものの、不良のジェラールから強引に男女の関係を結ばされてからは、少しずつその愛情は虚ろになっていく。家の財政状態などもあり、彼女にとってのリアリティは、無垢で無力なもの(彼女の父親もまた無垢で無力)から、野蛮ながらも力のあるものへと移っていく。

このことを深く印象的に示すものとして、マリーが雨宿りのために訪れた酒屋のシーンが映画の終盤に描かれる。

所有者を転々としていたバルタザールは、そのとき酒屋の男のもとで臼引き労働をさせられていた。雨に濡れた服を乾かすために、毛布一枚に身を包みながら裸になるマリーを、酒屋の男は女として見つめる。すでにジェラールとの関係を通して、男女の機微を知っていたマリーは、戸棚からジャムをすくいながら食べ、男の手を払いのけながらも、女としての値打ちをどこかで測っているような描写となっている。

酒屋の男は、マリーの父親への借金があったため、最終的に金の代わりにバルタザールをマリーの家は引き取ることになる。しかし、小屋にいたバルタザールに一瞥(いちべつ)しようともしない彼女のまなざしが、深い印象を残す。彼女のリアルは、そこにはもうなかった。

また、『白痴』ではロゴージンがナスターシャを殺害するように、本作でもまた、幼馴染のジャックと結婚するために関係を清算しようとしたマリーを、不良のジェラールは集団レイプすることで、彼女の心を殺すことになる。そのようにして娘を失ったことで、父親は衰弱して亡くなる。そしてバルタザールもまた、ジェラールの密売に利用され、国境警備に誤射されて死んでしまう。

ラストでは、羊の群れに取り囲まれながら倒れていく黒いロバの姿が描かれる。これは、キリスト教で常套的に用いられる、「善良な人間=羊」という比喩の典型であり、つまりバルタザールの無垢が、キリスト的に描かれていることを意味する。『白痴』のラストでもまた、ナスターシャを殺したロゴージンは逮捕され、ムイシュキン公爵は癲癇(てんかん)の発作を起こして、白痴状態に戻ったように。



そのように、聖書的には救世主とされた存在が、現代の人間にとっては、「無垢で無力」なものに過ぎないという、反転したキリスト像であることにこそ、本作や『白痴』の深い魅力は宿っている。だからこそ、バルタザールの黒々としたあの瞳の無垢と、娘から女へと変貌していくマリーの混濁した美しさとが、深い対称性をもって描かれることになった。

使用される音楽は、シューベルトが最晩年に残したピアノ3部作(第19番・第20番・第21番)のうちの、第20番(D.959)第2楽章。僕も大好きでよく弾いており、真っ白な空白地帯にただようように、引き裂かれた生と死の明滅が感じられる。

映像の印象としては、ブレッソンらしい緊密なものではあるものの、純粋に映像としてはそれほどのものでもないように思える。しかし、原作としたドストエフスキーの洞察をブレッソンは鋭く捉えているため、たいへん深い作品となり得ている。

そして、こうした成功の仕方もまた、映画のもつアポリア(原理的な難題)をよく表しているように思う。

★フランス
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