YasujiOshiba

明日に生きるのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

明日に生きる(1965年製作の映画)
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DM。25-7。イタリア語版字幕なし。イタリア公開は1963年。日本公開が1965年ね。

ずっと気になっていた作品にキャッチアップ。噂にたがわぬ名作でした。ラストで落涙。19世紀末の労働運動に取材したものだけど、当時の資本家たちが現代のオリガルヒに重なり、貧しい暮らしを強いられ、自己責任という呪縛に縛られた労働者の姿が身に染みる。

たしかにここで描かれているような悲惨はなくなったかもしれない。なにしろ、14時間労働というとんでもない条件のなか、寒さに震える暮らしを強いられる、暖を取るための貨物列車から炭を盗む労働者とそれを見逃す国鉄職員なんて、今の時代にはないかもしれない。本当の空腹というものは、想像することしかできないが、そのためのヒントがここにはある。

日本で労働問題を取り扱ったものとしてパッと思い浮かぶのが、1925年(大正14年)の細井和喜蔵のルポルタージュ『女工哀史』、1929年(昭和4年)の小林多喜二『蟹工船』だろうか。

前者の時代に取材した山本茂実のノンフィクション(1968年)が『あゝ野麦峠』として1979年に山本薩夫監督、大竹しのぶ主演で映画化されている。

後者は1953年に山村聡主演・初監督『蟹工船』として映画化されているけれど、2009年に監督・脚本:SABUで松田龍平、西島秀俊、高良健吾などのキャストで映画化されたのが記憶に新しいか。

マリオ・モニチェッリのこの映画は1963年だ。着想したのはプロデューサーのフランコ・クリスタルディとフランスに滞在中のことで、フランス革命のことを考えたことがきっかけで、イタリアのあまり知られていない労働争議を思いついたという。

舞台は19世紀末のトリノ(工場はクロアチアのザクレブで撮影されたという)。当時の労働時間は14時間だったいうのだけれど、それがどんなふうなのかが伝わってくるのが冒頭の映像。ジュゼッペ・ロトゥンノのカメラがみごとで、白黒映像の迫力が強烈。

ストーリーの叙述も見事で、オメロという少年が貧しい家で起きるところから始まるのだけれど、顔を洗おうにも水桶が凍っているので、ホウキで氷を砕く。いかにも寒そうなオープニング。そして工場の中。紡績機が回り出す。労働者たちが持ち場につく。機械の音が日々わたり、単純労働が始まるのだけれど、ひとつまちがえれば機械に食われてしまう。

始業時間は朝の6時。昼食は13時から30分。そのまま20時すぎまで働くことになる。当然事故が起こる。それが物語の始まり。労働者たちはさすがに14時間は無理だから、13時間にしてほしいと交渉するが、相手にされない。そこで1時間早く終業ベルを鳴らそうというサボタージュを考えるのだけど、これも失敗。

そんな彼らが話し合っている集会所に、たまたま寝泊まりしていたのが教師シニガッリヤ(マストロヤンニ)。彼はジェノヴァの労働争議を扇動した罪で追われトリノで労働者たちに教えている小学校教師ディ・メオ(フランソワ・ペリエ)に匿われていたのだが、労働者たちの話を聞くと黙っていられない。1時間とか2時間とか言ってないで、1日まるごと、いや何週間も仕事をしなければ、工場を経営する主人たちは、労働者がケダモノではなく人間だってことを理解する、そう訴えるのだ。

こうして労働者たちは団結してストに入る。工場の経営を任されている社長(マリオ・ピス)は労働者の懐柔に入り、これまでの怠業に課した罰金を取り下げて、出勤停止にしたパウタッソ(フォルコ・ルッリ)を復帰させてもいいと言い出すのだが、14時間労働は変わらない。

こうしてストライキが続く中、経営側は別の労働者を集めるのだが、スト破りは許さないとばかり、ストライキ側はスト破りの労働者を乗せた列車を取り囲んで大混乱となり、そのなかでパウタッソが事故死してしまう。

ストは長引き、労働者側はシニガッリャを逮捕させようとする警察を動かすが、シニガッリャは労働者のひとりの娘で娼婦となって家を追い出されていたニオベ(アニー・ジラルド)のもとに匿われる。そこで工場経営側がこれ以上ストライキが続くのは耐えられない状況であることを知る。

一方で、ストライキ側の労働者のひとりマルティネッテイ(ベルナール・ブリエ)が、妻が妊娠してお金が必要になり、経営者のひとりのボーデ(ヴィットリオ・サニポリ)の家に呼ばれストーブを直すのだが、そのときポロリとストライキ側の苦しさを漏らしてしまう。実はそこで、ボーデは譲歩しようと考えていたのだが、逆に、経営者側は何年も耐えら得るとブラフをかますのだった。

こうしてマルティネッティは仲間を説得し、そろそろストライキを終わりにしよう。もう十分に戦ったじゃないか。こちらから譲歩してやろう。そう訴えると、多くの労働者たちが賛成の声を上げる。

けれどもシニガッリヤの理想に触れたラウル(レナート・サルヴァトーレ)が反対して時間稼ぎをし、その間にオメロに娼婦ニオベのところにいるシニガッリャを呼びにやる。

ストライキ中の労働者の集会は、まだ中止を決議していなかった。そこでシニガッリャは演壇に立つと、マルティネッティの言うことはもっともであり、中止する気持ちはわかると理解をしめしながら、そうやって収入を得るほうが賢いに決まっていると言いながら、その結果どうなるか、14時間労働をすれば20%の確率で事故が起こる。そして、事故で腕を失ったボンデイーノを名指しすると、「その腕を見せてみろ!」と労働者たちに示させるのだ。

これはまさにシェークスピアのアントニウスばりの名演説。中止に傾いていた気持ちは一転、そのまま工場へ向かってデモをすることになるのだが、工場には騎兵隊が待ち構えていた。しかし労働者は圧倒的に数が多い。騎兵隊は後退りするのだが、彼らには銃がある。威嚇の一発。それが怒りに火をつける。投石をはじめる労働者。あわてる騎兵隊に発砲命令が出る。若い兵隊たちは慌てる。三発の銃声。逃げだす労働者。波が引いたような工場の敷地にひとり倒れている男。オメロだ。かけよる姉のビアンカ(ラッファエッラ・カッラー)。労働者たちも駆け寄る。ビアンカに恋していた騎兵隊の兵士も駆けよる。ふたたび混乱のなか、ラウルが経営者を殴り逮捕されそうになる。そのラウルを逃したシニガッリャは自分が逮捕されてしまう。

ラウルは恋人に送られながら、シニガッリャのように逃走することになる。おそらく彼の理想をついで労働運動に身を投じるのだろう。

労働者たちはふたたび工場勤務につくことになる。冒頭のシーンが繰り返される。しかし、オメロはそこにいない。代わりに弟がいる。俺のような文盲の労働者になるな。勉強して学校を出るんだと言われていたその弟が、兄に代わって工場の門をくぐるのだ。

最初はシニガッリャ先生役にはアルベルト・ソルディが考えられていたというけど、いやマストロヤンニじゃないとダメだったと思うし、マストロヤンニだからこその説得力と哀愁がある。

監督のマリオ・モニチェッリという人もまた、このマストロヤンニのシニガッリャ先生のような人だったという。一見捻くれていて、普通じゃない男なのだけれど、その実、一途な理想主義者...

名作。落涙。イタリア版のシナリオと、公開時のアートシアターのパンフレットを注文。この作品はじっくり資料を調べてみたい。

イタリア語版で字幕なしだけど、全編はこちらに鑑賞可能。
https://www.dailymotion.com/video/x80zg05
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