JAmmyWAng

トウキョウソナタのJAmmyWAngのネタバレレビュー・内容・結末

トウキョウソナタ(2008年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

風に舞う新聞紙や、感情を受け止める段ボールなど、いくつかの黒沢清的モチーフを楽しみながらも、とにかく素晴らし過ぎて逝きました。そうです、私は逝ったのです。

大人も子供も男も女も、それぞれに何かを背負ったり失ったり、それをお互いに言ったり言えなかったりするという意味では、家族だって他者の集合なのかもしれない。

この映画では、社会的にも折り合えない、家族的にも分かり合えないという閉塞感の中で、それぞれがそれぞれのやり方で息の詰まる枠組みを一旦脱却することによって、もう一度「ホーム」という根源的な関わりの中へと回帰していくワケです。

食卓などの家族的な光景は引いたショットで捉えられるのだけれど、そのほとんどと言っていい程に、家具や壁や階段といった遮蔽物が被写体との間に挟み込まれている。観客にとって、あくまでこの家族は何らかの外部性を隔てた他者なのである。

そしてその家族が他者への共感を示す時、決まって「お前に私の何が分かるんだ」という反発を引き起こすワケなのであって、言語による他者との感情の共有化はどこまでも拒絶されている。

しかしながら、ラストシーンで演奏されるドビュッシーの『月の光』は、そうした他者との隔たりを美しい旋律で満たしながら、聴く者すべての心を音楽によって一つにしてしまうのです。

それは劇中の人物だけではなく、この家族に対して緩やかな他者性を示されてきた我々観客にとっても同じ事であって、その音色によって視覚的断絶は解き放たれ、直接的な感情の共有化が強烈に促されていくのであります。私はここで嗚咽して死にました。

一方でこの映画は、登場人物達における行き詰まりの発露としての挙動を、味わい深い笑いに転換するようなシーンがふんだんに取り入れられてもいるワケです。そうしたあるがままの映画的世界に笑い、泣き、とにかく映画それ自体を改めて好きになる超絶大傑作であると私は信じて止みません。

冒頭にも申し上げましたように、この映画の素晴らしさによって私は死にました。『叫』の葉月里緒奈風に言うならば、「私は死んだ。だから、みんなも死んでください………」と思う次第でございます。
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