タマル

楢山節考のタマルのレビュー・感想・評価

楢山節考(1983年製作の映画)
4.6
白く染まった壮大な山々の空撮から始まる。重く、静かに世界を支配する雪に対し、攻撃的に突き出した木々はまるで杭のようだ。空撮がゆっくりと氷の世界を旋回する。すると、山肌にポツポツと点在する民家が見えてくる。そこで私たちは、木々は杭ではなく柵、あるいは人々を監禁する檻であったことを理解するのである。

80年代邦画大作化の代表的一作。3年かけたロケ撮影、その甲斐もあって本作は自然の広大で、美麗で、かつグロテスクな魅力を表現し得ているように感じた。恐らく、そうした自然描写がテーマと必然的に結びついていたからであろう(結びついていなかった例が『八甲田山』だと思っている)。

村だけが世界、村だけが法則、外の論理など入り込む余地がない。まごう事なき「ムラ」である。これは、言い換えれば人生とは村の掟の中にしかあり得ないということになる。村の掟を遵守すること、それがすなわち「生きる」ということなのだ。
本作で最も戦慄するのは、生き埋めのシーンである。初めこそ、ドンドコドンドコ重苦しい音楽がなり、埋められるものたちが抵抗したりもするが、やがて音も消えていき、村人たちは淡々と穴へ砂を注ぎ続ける。まさに作業である。彼らにとっては歯を磨くことや髪を梳かすことと同じく、生活習慣の延長線上に生き埋めという行為があるのだ。閉鎖された空間での常識。それはそこでの生と密接に関わるが故に、そこに懐疑の念など起こり得ないのである。

なんかウンベルト・エーコが
「もっと世界に目を向けて欲しい。鏡を見る頻度を減らして欲しい。」的なことを講演で言っていたらしいことを思い出す。鏡は真に客観的に自己を認識するには向かない。それは「鏡合わせ」という意味だけでなく、主観的な操作により虚像を作りあげ、それを更新し続けることでより現実との乖離を生んでしまうためである。自己認識は他者と際の認識によってしか生まれないのである。もし「そうするしかない」とか「これしかない」などと感じる時こそ状況を相対化して見る視点を保持するべきである。姥捨という、恐らくもっとも「ムラ」的なこの現象と人々を見るにつけそんな感じのことを感じた感じだった。
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