otomisan

小早川家の秋のotomisanのレビュー・感想・評価

小早川家の秋(1961年製作の映画)
4.3
 のっけから女二人に見合い話が切り出される。片や男の聖地のような道頓堀は「温泉ニュージャパン」の膝元で原節子に森繫「社長」を娶せるというからいかにもそれが下品に映るのが浪速風に面白く、こなた、司葉子は、原の義理の妹とは直ぐにわかる。大阪近郊、窓の外には巨大な「2」の字、どんな大倉庫に隣接するのか団地の一室であろう原節子のやもめ暮らしの場で打ち明けるのが銀行頭取の倅との縁談。ビール会社勤務の男なんだけど、と言う。
 この義理の妹は造り酒屋の次女というわけで、何の因果で麦酒屋に嫁げというのか?当時すでに清酒の出荷量は大増産のビールに追い越され頭打ち。増して「白雪」なんて甘ったるく風味もしつこくてどうもね。父君、頭取氏に取り入って融資の審査に情実の下知を賜らんとの大旦那の魂胆は明らかだ。

 時代は既に寿屋の「洋酒天国」で「白雪」の若旦那、入り婿小林桂樹と妻でお店の長女、新珠が2年後にはまさしく寿屋宣伝部は山口瞳の「江分利満氏」に転身してしまう。闘病下この人事を聞いて小津が残り僅かな秋日、この二人の新境地に何を思ったか想像するのも面白かろう。
 成長期にも関わらず清酒業の苦境は劇中度々吐露されるところだが、大旦那鴈次郎はどこ吹く風の放蕩者の過去があり、今また19年越しの焼け木杭に火が付くありさまで、いづれ情実融資を隠れて祇園の女に貢ごうとでもいうのか?こんな面白くも不穏な情勢だが遂に病魔が鴈次郎攫ってゆき、ついでにダブル縁談も昔の男どもの邪な道とでもいうように躱して原も司も我が道に向かってゆく。

 この間、つまり盆から月末まで、残暑厳しい鴈次郎の屋敷では縁先に盆提灯が提がり庭には葉鶏頭がもえている。あの夜目にも赤い葉鶏頭が軒の傾いた旧家、「白雪」の小西であれ、「月の桂」の増田徳兵衛であれ三百年来の商いであるが、それが今暖簾を降ろすかの瀬戸際にあるも、そんな話をさらりと聞き流すようにひとり空元気を装っている。
 鴈次郎も同様だろう、戦況の暗転に伴って祇園の女と手を切り、敗戦とともに家業の先行きを悟り、放蕩でやせ細った我が家を回生する切り札として娘を嫁がせる皮算用に空元気を貰えば、今度は意図せず付いた焼け木杭もまた空元気を後押ししてくれる。

 つい先日発作で死の淵を巡って来て、放蕩者の最期を絵に描いたようになじみの女に看取られて、もうこれっきりですか、もないもんだが、娘と嫁の二人から「否」を浴びずに死ねて、ついでに「否」を告げさせずに娘孝行を最期に遂げたのは大旦那の徳と記されるべきだろう。
 鴈次郎も明くる新盆をあの屋敷で軒の提灯と葉鶏頭で迎えられるのか、さらに翌年にはエブリマン氏になってしまう長女夫婦の新居を目の当たりにして死に場所と死に時を得たと諦念するのだろうか。そして、終の半月に図らずも会うべき全ての身内に会って喜怒哀楽の一切を割って見せてあれができる限りかと思い納めるのだろう。ところでもう一人の「娘」にミンクの何やらを貢げなかった事は心残りだったかどうか聞いてみたいもんだ。

 鴈次郎がこのように明治期、酒税が国税の最大分を占めたという醸造業の繁栄を偲ばせる銘醸の大旦那として逝きし世の面影を担うなら、残された者たちに来るべき世界は何を求めるだろう。
 鴈次郎を送って戻る此岸への徒歩橋の細い先は選り好みさえしなければ道は幾らでもあるぞと告げるようである。
 そのとき彼等のうち己が道を承知しているのは「社長」を振った原と融資を蹴った司だけだろう。司資金を断念せざるを得ない酒蔵が引き受け手を募る、ここまではどうやら分かるがその先はどうだ?
 明るいはずの明日を所得倍増に求めず、北国の貧乏助教授の元に参じる次女、亡夫との一粒種に想いを託す嫁、秋からやがて冬となり、エブリマン氏に向かうのか中小企業の蔵元のまま杣道を辿るのか、新珠長女に父親の空元気が相続されればいいとふと思う。
otomisan

otomisan