デニロ

黒い牡牛のデニロのレビュー・感想・評価

黒い牡牛(1956年製作の映画)
4.0
1956年製作。原案ロバート・リッチ(ダルトン・トランボ)。脚本ハリー・フランクリン、メリル・G・ホワイト、ダルトン・トランボ:(ノンクレジット)。監督アーヴィング・ラパー。

荻昌弘解説の月曜ロードショーで観たのは1971年のことだと、記録にある。おそらくハリウッドの赤狩りに触れ、ダルトン・トランボの背景なども話していたのではないか。無論そんな人物の書いた作品がアカデミー賞の原案賞を受賞したことにも触れていたろう。わたしも政治的状況とやらに目覚めていた頃なので、彼の解説にはきっと感銘を受けていたことだろう。なにしろ50年前にテレビ放映で本作を観たということを誇らしく思っていたのだから。が、ちっとも面白くなかった。そんな記憶しかない。闘牛のシーンなんてきっと退屈していたのではないか。

51年振りにスクリーンで観た本作。闘牛場でボロボロにされながらも戦い続ける黒い牡牛の姿によしだたくろうのイメージの詩の歌詞が思い起こされた。
/たたかい続ける人の心を/誰もがわかってるなら/たたかい続ける人の心は/あんなには燃えないだろう/
おそらく闘牛場の観客は傍観者たちで、同じ歌の中でこんな風に歌われている。
/いいかげんな奴らと口をあわせて/おれは歩いていたい/いいかげんな奴らも口をあわせて/おれと歩くだろう/
そして歌詞の冒頭は、こんな風なのだ。
/これこそはと信じれるものが/この世にあるだろうか/信じるものがあったとしても/信じないそぶり/

牛が勇者として評価されることではなく、トランボの言葉を借りれば、勇者も敗者もなく、いたのは被害者だけ、一緒にその痛みを分かち合おう、ということなのだと思う。決して諦めきったニヒルなおじさんではなく何が何でも世界中の自由と平和と正義のために戦い続けるんだということなんだろう。

最後の数十分は無意味な戦いを嫌悪する主人公の少年のこころと、戦い続ける牛の姿にメガネがびしょびしょになったのは言うまでもない。

シネ・リーブル池袋 12ヶ月のシネマリレー にて
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