GIFT(才能)によって、GUILTY(罪)を負わされることを、このきれいな少年は知っていた。そして、GIFTをまたぐように、彼はその手前にあったINNOCENCE(無垢)と、その先にあるGUILTYを味わうことになる。
タイトルの『ボビー・フィッシャーを探して』が意味するものは、周囲にとっては、ボビー・フィッシャーのようなGIFTを探してということになるいっぽうで、少年の内的世界では、彼のようなINNOCENCE(を探して)ということになる。僕の目には、そした相反性が描かれているように感じられた。
ボビー・フィッシャーを、今の日本に置き換えてみるならイチローや大谷翔平に近く、チェス大国であるソ連との戦いを制して、初めて優勝したボビー・フィッシャーは、ベースボール大国であるアメリカで新記録を作る彼らに等しかった。
彼自身については『完全なるチェックメイト』(トビー・マグワイア主演, 2014年)に主人公として描かれており、併せて観ることで、とても味わい深く感じられた(人格的にも優れているイチローや大谷翔平に対して、ボビー・フィッシャーはかなり破綻した性格として描かれている)。そのボビー・フィッシャー(イチローや大谷翔平)と、同じくらいの才能を見出された少年が、この映画の主人公ということになる。
ボビー・フィッシャーの偉大さは透徹したINNOCENCEにあった。そのことが、両作品を観るとよく伝わってくる。そして、心の痛みを知っているからこそ、この少年は皮肉にもGUILTYを背負っていくことになる。
旧約聖書に描かれる、『創世記』のアダムとイブの話もそうした構図になっている。GIFT(知恵の実)をまたぐように、その手前にあったINNOCENCE(無垢)と、その先に待っていたGUILTY(罪)の味を、人類初の夫婦は味わうことになる。GIFTをつかむことで知った、GUILTYの味。
そのため、この映画の味わいは、才能を持った少年が迷いを乗り越えて、愛や成功を手にしていくサクセス・ストーリーにではなく、与えられたGIFTによって、INNOCENCEの楽園からGUILTYの世界へと追放される、失楽園性にこそある。無垢のなかに生きていた透明感のある少年が、勝つたびに罪を重ねていく。INNOCENCEでいられるのは、公園での早指しのときだけ。
つまり、GIFT(才能)の話ではあっても、GENIUS(天才)の話にはなっていない。
そうした意味において、この物語は僕たちの話となる。生きているということは、社会的立場や年齢を超えて、すべてGIFT(贈り物であり才能でもある)に他ならない。GIFTは、選べない。だからこそ、自らの意思によってINNOCENCEを失っていくほかに、GUILTYと和解する道はない。どれほど「INNOCENT MOVE(汚れなき一手)」のようなものを求めたとしても、行き着く先は、チェックメイトという罪の袋小路でしかない。
ラストであの青い目が見ていたのは、そうしたGUILTYの風景だったのではないか。
この映画の本質は、そのアイロニー(相反性)を透明に見つめた、まなざしにこそあった。彼が、父親からの愛と承認を求めていたにすぎないという側面も、車の両輪のように描かれてはいるものの、人が社会性をもって生きていくときには、必ずGUILTYを通過することになる。
その原罪性が描かれているからこそ、有意味に響く内容になっていたように思う。