おじさんと呼ばれる生き物がどのようなものであるのかを、象徴的に描いた作品だったように思う。そのため、すべての暴力(バイオレンス)シーンは、コメディの文脈で語られる必要があった。
15年の監禁生活という設定もよく効いており、それは、20代の青年が40代の中年期に入っていく年月と、ぴたりと符合する。また、そのように生きられる15年とは、社会や所属組織からの「監視・監禁」状態にあるとも言え、そうした環境のなかで、何かしらのスキル(この男の場合は戦闘力)を身につけていくことになる。
解放されたあとに、コメディとして描写されるその戦闘力は、こうした事情のメファーとして、面白さと哀しみの両義性のうちに示されていたように思う。
そして、中年となった男は、若い女と出会う。
おじさんにとっての「若い女」という存在が、象徴的な意味で不可欠であることや、その反対に、若い女にとっても「おじさん」という存在が、やはり象徴的な意味で不可欠な理由も、悲劇のうちによく描かれていた。
また、この若い女の正体や、彼を監禁した人間との関係性も含めて、ことごとくが「おじさん」たちの内的ドラマや存在論として、見事に描かれていたように思う。
以下、すぐにネタバレ。
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蓋を開けてみれば、この映画に描かれたモチーフとは、復讐というフェイクに隠された2つの近親愛と、男どうしのホモセクシャルな関係性だったところがある。
監禁した男は、姉との近親愛の破局を何かに転嫁するために、その男を監禁したのであり、理由としては理不尽なものとなる。しかし、監禁された男が「復讐は俺の性格の一部になった」と言っているように、監禁した男/監禁された男を結ぶものは、実際には復讐心ではなく、ある種のホモセクシャルな関係性と言って良いように思う。
こうした関係性は、たとえば『ヒート』(マイケル・マン監督, 1995年)においても、濃密に描かれている。つまり、彼らは「関係性」を求めたのであり、その内実は復讐心でも正義感でもない。
僕自身が、このFilmarksにおいて、数多くの「おじさん」たちから、こうした関係性を求められてきた経緯があり、彼らがコメント欄に書き込む動機は、いずれも自分自身が抑圧した感情にとらわれたものであり、内容としては明後日の方向になる理由も、この映画に描かれたとおり。
また、それなりに映画を観ているにも関わらず、このくらいのことも分からないのは、つまりは程度の低さを表しているため静かにブロックしている(残念ながら役不足)。振り向かせたければ、圧倒的なレビューを書くしかない(それができないために、彼らは攻撃(監禁)しようとする)。
では、その抑圧感情は、どのようにして生まれたのかと言えば、やはり近親愛の挫折によってということになる。監禁した男にとっての姉とは、母なるものの代理存在であり、典型的なエディプス関係と言える。
いっぽう、監禁された男にとっても、若い女が、実は娘だったという設定に表れているように、やはり近親愛が根底にある。男が中年になってから、若い女へと走る理由は、父性(権威や保護)と男性性(挑戦や攻撃)との揺らぎによるものであり、その対象は「娘」に象徴される存在となる。
そして、若い女にとっても、中年男性を求める時期があるのは、この裏返しによる。彼女たちもまた、父性(権威や保護)と男性性(挑戦や攻撃)の揺らぎに触れることで、母性や女性性を獲得しようとする。
結果として、「おじさん」と呼ばれる生き物は誕生する。このことを、悲劇的なコメディという語りのなかで、象徴的に描いていた。
★韓国