感動的な話であり、ヒロインのイスを演じたハン・ヒョジュが素晴らしくチャーミングで、現実世界に生きる彼女から立ち昇るような魅力が、演じた役柄や設定を跳躍していたように思う。
いっぽう作品としては、心と体は別ものという素朴な世界像に支えらているため、深い感動には至らなかった。いわゆる「身体論」としての深いアプローチがなければ、僕たちの生の実感に働きかけないのではないか。
目覚めるたびに、年齢・性別・国籍の変わる主人公という設定からは、その身体論的な面白さが引き出せていないように思う。
フランツ・カフカの『変身』や、リドリー・スコットの『ブレードランナー』が素晴らしいのは、目覚めると虫になっていたグレーゴル・ザムザにせよ、アンドロイドとして生を受けたレプリカントにせよ、彼らが虫やレプリカントとしての身体性から逃れることのできない、心の有りようを描き出している点にあった。
ささやかな趣味嗜好から絶望に至るまで、彼らも僕たちも身体から自由ではない。フランツ・カフカ(1883-1924年)に至っては、まだ19世紀と言っても差し支えないような頃に、このことを洞察していたことになる。
その点、本作に描かれる主人公ウジン(複数の役者が彼1人を演じる)は、体こそ変わるものの、心は同一という設定になっている。だからこそ『ビューティー・インサイド』であるとはいえ、僕たちが誰かに惹かれたり翻弄されるのは、そのような心身二元論的な現象によるものではなく、心と体が不可分に溶け合った領域にこそある。
優れたSF(Science Fiction)の本質が、科学的な虚構によってホログラフィックに浮上する人間の性(さが)にあるとするなら、本作がファンタジーとして描き出しているものは、それこそファンタジー(空想)でしかない。
本来であれば、主人公のウジンこそが、自身の身体の変化によって、心まで変わってしまうことに混乱しなければ、ファンタジー(空想)から、真の意味でのフィクション(虚構)に結びつくことはないのではないか。
しかし、ハン・ヒョジュが素晴らしく、それだけで十分と言えば十分でもあり、物語としての設定の不徹底さのなかに、彼女のもつ「いまこのとき」が身体的に立ち上がっていた。
★韓国