教授

孤独な場所での教授のレビュー・感想・評価

孤独な場所で(1950年製作の映画)
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自業自得。それによって抱え込んだ孤独。そうとしか生きられない業。
それは「ファム・ファタール」を待ち侘びて人生を棒に振ることに繋がる。
そしてその「ファム・ファタール」は運命を狂わせる「女」ではないということ。

本作が秀逸なのは、自分の人生を破滅させるのも、そこから浮かび上がるのも「自分次第」ということを描いていること。

「運命」を感じたとしても、むしろそれは偶然の産物であり、惹かれ合い、蜜月は訪れる。
しかし冒頭に示される通りディクソン(ハンフリー・ボガード)の人間性は、粗暴であり、垣間見せる人情味はその罪悪感の裏返しや、あるいは帳尻合わせでしかない。
この映画の残酷なところは、才気溢れる脚本家の創作にまつわる繊細さと絡めてあり、苦悩の産物だとしても、そこに救いを与えないところにある。

彼の救いようのない粗暴さは、彼自身の孤独さ故ではなく、むしろ粗暴である自分を直視できないが故に呼び込んだ孤独として描かれる。
それは刑事である友人のブラブ(フランク・ラブジョイ)や、エージェントのメル(アート・スミス)など、出来た友人たちに恵まれている点で示される。

ディクソンは、友人たちにも、そしてようやく巡り会った「ファム・ファタール」であるローレル(グロリア・グレアム)に対しても、実際のところ最愛の人を得た喜びには満ちていても、それによって生き方を見つめ直してはいないのである。

そして当然の帰結のように、自滅していくあまりにもドライな演出に今観ても古さを感じない。
そして、それがまさに「映画を巡る世界」として展開されていくメタな構成も含めて、実によく出来ていた映画だった。
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