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ファイト・クラブの教授のレビュー・感想・評価

ファイト・クラブ(1999年製作の映画)
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ポッドキャスト課題作品。

「好き」を公言するにはちょっと羞恥心が邪魔するほど、ミーハー的な部分と作品の持つテーマ性の意義深さが同居している傑作に違いない。

本作の確信犯的なところは、物質主義であったりその根っこにある資本主義への批判と闘争について、有害な男性性の陥りがちな「虚無感」と、その解消のための分かりやすい「ホモソーシャル」的な連帯が「高揚感」を持って描かれることにある。
それがある意味では現在(2024年)でもミソジニーを拗らせたインセルたちに悪用される弊害を「映画の力」で扇動してしまう点が大きい。

それは厨二病的な「ライフスタイルの奴隷」であるナレーター(エドワード・ノートン)のキャラクターに全て描き込まれているし、一方で「理想の体現」としてタイラー(ブラッド・ピット)のカリスマ性あるキャラクターに全て描き込まれている。

全てはマーラ(ヘレナ・ボナム・カーター)という、これまた男性の脆弱さを性的に消費でき得る「破滅的」なイメージを表象したキャラクターを周到に配置して描かれている。

一方で、それらは「カリカチュア」されたものであり、アイコニックな存在でもあるが故に、驚くほど単純化され、分かりやすい。
しかし監督であるフィンチャーはそれらをよりサブカルとシネフィルの間をギリギリのラインで行き来するデザインを施す。
それによって我々がいかにも「好みそうな」メッセージと映像センスで圧倒し熱狂させるのだ。

しかし、本作は「ミソジニー」への扇動でもなく、暴力革命へのアジテーションでもなく、映画自体のパワフルさと同時に「騙されやすい私たち」への警鐘でもある。
シンプルに物語に目を向ければ一目瞭然で、本作が描いているのは「ファイト・クラブ」を通じた幼児性である。
何より、その「発端」となるのはマーラであり、社会や現実に向き合うことのできないウジウジした厨二男性であり、肥大した妄想が生み出したタイラーである。

男性にとっての「女性」という他者、あるいは異物を恐怖し、憎み、排除する。
その感情の根幹は「承認」であり「受容」であり、その報われなさに対する「逆恨み」の憎悪と願望である。
その「受け入れ難い」という他者への受容を、社会変革に結びつけ、それらへの疑問からマーラという女性を受け入れるまでという実にあっさりとした内容である。

しかし、映画の残酷なところはその「彼女を脅威から守る」という行動心理こそ、もうひとつのマッチョ性の発露であるというラストのサブリミナルショットまで、隙のない映画。
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