ルサチマ

コロッサル・ユースのルサチマのレビュー・感想・評価

コロッサル・ユース(2006年製作の映画)
5.0
映画の闘争。

カメラはそこにかつての暮らしが立ち現れるように映さなければならないが、コスタの極限にまで設計された照明と構図への拘りは空間そのものを変容させ、まるで今の時代に地続きのものとはおよそ思えない。
切り返しさえも決してなされない非常に困難を極める空間把握を観客は求められるのであり、その困難さ故に観客は次にヴェントゥーラをはじめとする黒人たちの歩く、立ち止まる、体を動かす姿に時間と空間を委ねることへと意識を向ける。それは当然カメラに映る人間と物質が変わることでしかカットは変えてはならない(変わる訳ない)という事実があるから。

コスタのカメラは簡単に被写体によることさえ拒む。ヴェントゥーラが歩み寄る若者たちとの会話がロングショットで映されるのは、彼らの語りが空虚にただ時間となっていく様を見せるためであり(しかもあくまで記憶の語りによって、時間までもが変容している)、繰り返される妻への手紙(=テキスト)はその音声を様々に変えて声に出されたとしても、一切捉えられる被写体へのカメラの距離が変わることはない。

コスタが映すのは単なる無機質な文字のテキストを音声として発声したときのエモーションの質感を、単なる壁でしかない扉を、単なるシャンデリラを、単なるソファーに質感を与えることだ。
冒頭から投げられる家具の鈍い音に、剥き出しの外に放り出されたソファーに、ゴツゴツした質感を与えることの徹底。

物質がその質感を画面に入る不自然なライティングで、画面外からのマイクで新たに発見されること。それこそが、変容された空間の中で、一つ一つの物質が各々に新たな時間と空間を獲得し得る方法なのではないか。
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