Cisaraghi

破戒のCisaraghiのネタバレレビュー・内容・結末

破戒(1962年製作の映画)
-

このレビューはネタバレを含みます

原作を知らないので、どーせ暗い結末になるんだろうさ、と勝手に決めつけて観ていたが、予想を裏切られてよかった。泉鏡花作品でも思ったが、明治の文豪の書いた小説は話が案外骨太でしっかりしている。

鴈治郎、杉村春子と豪華キャストの割に影が薄く、雷蔵さんのお芝居も今ひとつしっくり来ず、長門裕之も船越英二も、いかにもお芝居してますという感じ、などとあまり入り込めずに観ていたが、丑松が子供たちに告白する場面で一気に持っていかれた。雷蔵の演技がどうのというより、自分がこんな先生の告白を聞いて強く心を動かされ、それを一生涯胸の奥に大切に留めておく生徒だったらよかったのに、と一瞬思ってしまった。誰もがそんな告白をしないで済む世の中がいいに決まっているのに。ましてや、謝る必要など全くないのに。

そして岸田今日子が丑松に意見する場面がもうひとつのハイライト。ここは小説にはない部分らしい。間違っている方の釈に合わせる必要はない、という正論が小気味よかった。恥じるな、胸を張って生きろ、というのは当然の主張だが、突出した個人ではなく、民衆によって、いつのまにか知らぬ間に差別は無くなっていくのだ、という意見に対しては、藤村が「破戒」を書いてから100年以上、この映画から60年経って、今現在の部落差別問題がどうなっているかがその答えなのだろう。

それにしても、これほど音楽と映像が乖離していると感じた映画も珍しい。現代音楽的で不穏な部分はまだしも、ハリウッドの大仰なメロドラマみたいな劇伴はどーなの…。全く違う音楽をつけたバージョンを観てみたい。 

難癖つければ、信州小諸の素朴な若者である丑松を演じるには、雷蔵さんは色気あり過ぎやしない?台詞にたまに関西訛りが出るのもその印象を強めたのかもしれない。全体的に、みんなどこの言葉を話してるんだろう?と気になった。飯山ではあらたまった場では「~なのです」といった角々した話し方をするのだろうか?「やんす」というのは飯山方言みたい。

藤村志保さんのデビュー作だというが、どうして堂々としたものだった。蠱惑的かつ知的な岸田今日子さんは雷蔵さんより一つ年上。全くそういう話ではないけれど、この二人の道行きには危うさを感じる…。

鴈治郎演じる住職について、女好き以外は申し分ない人、という評価が下されるのが意味不明。立派な性犯罪者です。

43
Cisaraghi

Cisaraghi