三四郎

愛を読むひとの三四郎のレビュー・感想・評価

愛を読むひと(2008年製作の映画)
3.5
ドイツ文学科の学生であり、著者が教授をしていたフンボルト大学に留学するのであれば一応読んでおかなければと、大学2年生の冬休みに『朗読者』を手に取った。まず二人の出会いが衝撃的だった。少年が気分が悪くなり道端にゲロを吐き、それを女性が介抱するところから始まる…。そしてさらに衝撃的だったのは、15歳の少年が36歳の女性と関係を結び逢瀬を重ねるという展開。大学教授が書いた本だよね?と思わず著者紹介欄をもう一度見てしまったのを覚えている。こんな小説を法学部の教授が書いたのか!という驚き。

しかし、読み進めるにつれて引き込まれた。ナチス・ドイツ、アウシュビッツ…とドイツの暗い過去の歴史を一人の女性に深く関連付け、「過去に犯した罪をどのように裁き、どのように受け入れるか」という深い深いテーマへと入っていく。恐らくこの時、第2次世界大戦以降の現代ドイツ文学を初めて読んだように思うが、今も昔もドイツ文学って「重み」と「深み」があって深刻というか真面目だなと思った。しかし、この小説で最も衝撃的で理解できなかったのは、1922年生まれの女性が「文盲」だったという事実。私には、まさか文明国のドイツの女性が、いや、第1次世界大戦以降に生まれた近代女性/ドイツ人女性が「文盲」だなんて設定に無理があるだろうと思ってしまった。しかし、こんな私みたいな人間がいるからこそ、この女性は「文盲」であることを恥ずかしく思い、誰にも相談できず、勤務成績が良いことによる事務仕事への昇進の話が出るとその都度職場を替え、そしてアウシュビッツのユダヤ人の監視役に行きついたのだろう。

小説でも考えさせられたが、映画を観ていても再び考えさせられた。女性は真面目に与えられた仕事を…責務を全うしただけだったのだ。教養の問題なのか理性の問題なのか、私にはわからない。

女性の遺書で、彼女が刑務所生活で貯めた7000マルクをアウシュビッツの生存者(当時子供だった)であるユダヤ人女性に渡してほしいと書いてあったところにジーンときた。というのも、そのユダヤ人女性がニューヨークに住む「裕福な」女性となっているということが大体想像がついたから…。
ユダヤ人女性がお金は拒否したが缶(お金が入っていた)を受け取ってくれて、古い家族写真の隣に置いたことに、なんだか救われた。小説にもこんな描写あったっけ?もう覚えてないな…。

こんなことを言ったら非難されそうだけれど…。アウシュビッツなどのユダヤ人大量虐殺の映画は多くてよく知られているが、ポルポトの大量虐殺に関する映画は知られていない気がする。私が知らないだけかもしれないが…。これは…、やはり映画業界にユダヤ人が多く、さらに裕福な人も多い為、過去のナチス・ドイツの大罪を何度も映画化することにより、ユダヤ人を「可哀想な民族」として印象操作したいのだろうか...?二度と自分たち(ユダヤ人)に「貧しさ」「理不尽さ」に対する怒りの矛先が向かわないように…。


※後日談
YouTubeにて、『朗読者』とこの映画の感想を西部邁が話しており、それが非常に興味深い内容だった。私はすっかり忘れていたが、小説には、ハンナはルーマニア生まれと書かれており、ハンナに関する記述にロマ族(ジプシー)ではないかと推測できる箇所があると彼は述べていた。文盲であったことが納得できたが、それよりも、ユダヤ人問題より根深いヨーロッパのジプシー問題がこの物語には暗に描かれているのだということを知った。
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