深獣九

紀子の食卓の深獣九のネタバレレビュー・内容・結末

紀子の食卓(2005年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

※意味不明文につきスルー推奨笑


示唆がてんこ盛りすぎてお腹いっぱい。吐きそう笑

物語の舞台は、インターネットの交流が盛んになり始めた時代。みなハンドルネームを持ち、ある者は年齢も性別も変えた。みな、生きづらい現実世界から逃れ、こうありたいと望む自分として、ネット世界で活き活きと暮らすようになった。
現実から逃れようと家を飛び出し、さまよう紀子が行き着いたところは、レンタル家族を派遣する会社。それは虚構の世界。だが、そこで様々な役割を演じるうちに、紀子の心は平穏を取り戻し、同時に感情を殺して殻に閉じこもってしまった。姉を追うように、妹のユカもまた失踪する。娘たちの行動を己のせいと責任を感じ、母は自害する。傷心の父は、娘たちの行方を追い、単身東京へ。再会を果たすも、娘の心はもはや父を父と認識しないまでとなっていた。果たして家族の運命は……。

社会問題を衝撃的な脚本と映像で世に突きつける園子温監督。本作品にも、重たいテーマが詰まっている。キーワードとしては

・ネット社会の虚と実
・生きるとは?(社会での役割り)
・本当の自分はどこに
・そもそも「自分」とは?

などが挙げられるであろう。
監督は、いつも割と率直に表現してくれるので、私のような者でも比較的容易に感じ取ることができる。だが、それだけではあのラストは理解できない。

「役割り」を演じる紀子たちの前に、父徹三が現れる。混乱の極みに達した彼女らは、一瞬にして正気に戻る。急速に壊れてゆく世界。恐怖に叫ぶ姉妹。ナイフを振り回す徹三。居間は血の海となり、買い物から帰った母(を演じるクミコ)は、自分を殺してくれと徹三に懇願する。実に凄まじいシーン。
ここからさらに急展開し、偽物となった本当の家族が再びホンモノになる。そして妹のユカは、ほほえみながら前に進んでゆく。
それぞれがそれぞれの役割を甘んじて受け入れ、生きるために演じ続ける。つまり「自分」とは、生きてゆくための仮面であり、その時々の「自分」はすべて本物である。

そういうことであろうか。確かに、それは私自身にも当てはまる。

私はいま、生きている。たぶん。
そして社会で、いろいろな役割りを与えられている。夫、父、息子、会社員、上司、部下、同僚、取引先、友人、インターネットの中の人……。生きるため、それぞれの役割をそつなくこなす。それが大切なことだと思っている。
しかし、ふと思う。その中で、本当の自分はなんなのか。演者ではない自分はいるのか。わからなくなる時がある。いや、そもそも本当などあるのか?いやもっと言えば、私は生きているのか?息を吸って吐くだけで、生きていると言えるのか?

園子温監督から投げかけられた問いに、答えられない自分がいる。なんだかんだ時間をかけて考えてみたものの、書いたものを読み返せばなにがなんだかわからない。
でも、それでいいことにしよう。園子温監督から出された宿題の答え探しをすることが、監督の想いに応えているような気がする。わからなくていい、考えることが大事なんだと。

これからも、園子温の授業は続く。私はできの悪い生徒として、出席を続けよう。生涯学習。先生、よろしくお願いいたします。
深獣九

深獣九