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カポーティのKuutaのレビュー・感想・評価

カポーティ(2005年製作の映画)
4.3
久しぶりに強烈なの食らった。
作家とか編集者とか記者とか、そういう「他人の人生をつまみ食いする」仕事をしてる人はぜひ見た方が良い作品。

カポーティは虚実の入り混じった存在。社交界での表の顔と、同性愛者としての孤独な顔を電車や飛行機の移動を挟みつつ対比させている。自分の作品を褒めるように荷物係に賄賂を渡す、という冒頭のささやかなジョーク。これが彼の本質だ。飲みたいように飲み、自由にウソをつく。ペリーが獄中で書いた演説草稿を鼻で笑い、朗読会後に真面目な感想を語りかけてきた男性を馬鹿にする。嘘を散りばめて取材先に食い込んでいくテクニック。鎮静剤をあげるのも、親切心なんかじゃない。明るいハリウッドスターの話題から身近な人の死の話、そして事件の話に持っていく。警察署のおばちゃんにもサイン本を手渡して愛想を振りまく。全ては作品のため、取材のため。

こういう状況は多かれ少なかれ殆どの作家にあるのかもしれないが、カポーティの場合は取材期間の延長を目論んで被告の弁護士を雇うなど、どんどんエスカレートしていった。最終的に、ペリーの人生を完全に掌握する形になり、本来共通項の多い「表玄関と裏口」の関係にあるはずの「友人」に対して「早く死刑に」と願う、あまりに非人道的で捻れた関係が完成してしまう(ペリーもカポーティの本の出版で状況が好転すると期待しており、相互に利用しあっている関係にはある。事件の「真相」には、カポーティと同じようなペリーの二面性が現れている)。

この映画の中でカポーティはペリーにどれだけウソをついたのか。「犯人だって怪物じゃない事を伝えたい」と綺麗事を繰り返しながら、実際には残虐な事件の裏側をセンセーショナルに描いていた。事件の核心を聞くきっかけになったのは「ペリーの姉は彼を恋しがっている」というウソだ。もう要らないからと渡されたペリーの家族写真を、カポーティはその事実を伏せたまま泣き落としの交渉材料に使った。最後に手元に残るのもあの写真、という皮肉。

良い作品のためには、出来るだけ取材先に近づく必要がある。それは確かに正しい。取材相手が、作家の思惑も知らずに「仲良くなれた」と喜んでくれることもある。だが劇中のセリフにもあったが、これは全て「仕事」。必要な情報が取れればこまめに会いに行くこともないし、電報も無視するし、スペインに休暇も取りに行く。

1950年代末の田舎町で起きた残忍な事件には、古き良きアメリカの終焉=「イノセンスの喪失」という米文学の重要テーマが潜んでいるし、だからこそカポーティは食いついたのだろう。だが、同種のテーマを扱いながらも、ひたすらに誠実な弁護士が主人公のアラバマ物語にカポーティは不満そうだった。彼の野心は、もっとスキャンダラスな、初のノンフィクション小説という形で実を結ぶ。

「冷血」なのは誰か。その問いを嫌というほど突きつけられるラスト。天才が天才でなくなり、書けなくなったのはなぜか。それはカポーティがこの経験を通して、他人の人生に肉薄出来なくなったから。皮肉にも彼の言葉通り、死刑執行直前のペリーの姿は「怪物ではない生身の人間」だった。そんなペリーの死は、カポーティという作家に対する死刑宣告でもあった。86点。
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