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暗黒街のニューランドのレビュー・感想・評価

暗黒街(1956年製作の映画)
3.5
✔『暗黒街(’56)』(3.5p) 及び『マナスルに立つ』(3.4p)『孫悟空(’59)』(3.3p)『天才詐欺師物語 狸の花道』(3.2p)▶️▶️

 実を云うと、この監督の戦後の作品を追うつもりはなかった。無色透明で特に観る意味もないと思い込んでたが、その底にある得難い力に気づかなかった。見始めるとどれもが素晴しい、という以上に心洗われる。通常の映画から離れて聳えてるというのではない。寧ろそれを避け、清らかさで目立つを嫌がり、表面上、そこに埋没している。その上で流行や権威に媚びるを拒絶し、ささやかな·普通は表に出し難い時代に明らかにそぐわない、しかし個人が通じ合うには欠かせないマニフェストを掲げ、貫いてる。田舎臭い猿芝居でなく、スマートに嫌味なく。この催しが始まる前に、殆どの作品に目を通してる通の中の通の人が、全体に否定的だったが、特に終盤の作は何もいう事はないとせせら笑った。それでも惹かれる物が、これまでは意識もしなかった流れとして個人的に生まれていた。
 『暗黒街』の派手さを避けた、暗めも内に向けて引き締まった図や絞り込む移動をやや不器用に続けてるが、光の採り入れなど実は丁寧で、アップの短く強い切り返しの熱度や、各人物ら自分をはみ出した物を内や外に見出して戦慄を自身や周りに与える、等にふと至る底力がある。アコギな事が当たり前のヤクザは、それを振りかざさなくても安泰の表向きでは、乾分ら新旧の打出しの違いだけで、親分も若い女医にデレデレ弱い正体を見せるを避けもしない。しかし、警察の新体制でヤクザ組織壊滅に本腰取組みが打ち出され、殺人らの尻尾押さえられが命取りになってくると、ダラダラした社会チカラ関係を不当に固定した永年の搾取·胡座かきが掬われ、本当の顔の現れ·怖さを見せてもくる。全てはあがり·融通や効率の能力本位とスマートに仕事も女もこなしてた登り調子の若手乾分が、それを越えた無私の行為·姿勢のインターン女医に戸惑い、未知のその領域に傾き、組織の内的破綻に火を点けるが、存続の為に自分の命はとりとめられると理解し、そのクールさで、世間知らずの面もあった自分を変えた女の幸せに助力し尽くす。
 作品として腰砕けと見せても、更なる強靱·諦め無い方向づけには驚く。
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 『マナスル~』はどの程度、撮影素材に作家の演出がはたらいているのか不明だが、第三次マナスル登頂隊の隊長の手記と同調しあってるかのようでもあり、偉業をスリリングとスペクタクルに称え緊迫感を積み上げてく、この種の定型と違い、地道で見てる凡人に伝わる·そんな絵が身近に欲しかったという、視界·展開の流れが、間近な感覚で続く。過去の説明も要領よく挟まり、自然やその現象の威容も前後と峻別して際立てるのではなく、角度やサイズに段差を無くし繋げてく。人の顔とその連なりの移動の、劇映画的寄りサイズの真情·キャラ迄分かる、望む近しさが続く(一方俯瞰Lやローの退いた客観カットも)。キャンプの設営毎に何回も荷物運びと兼対酸素身体づくりも繰り返しで手応え充分。天候や危険ルート·気圧·紫外線、酸素の分配比重や各条件での極限届きらもあるが、最大の困難は、ネパールであっても最高地はチベット人社会で、その迷信(1次隊通過跡の、たまたまの天変地異·疫病)による通過拒否の動かし難さを、別の部落の郡長絡めた折衝や、事業協力の大金供与で切りぬけ又緊張の現実のしつこさの存在の描き抜きは、ちと出口も見えなくなる見ものとなる。
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 『孫悟空』は、紙芝居~切り絵動かし~舞台やセット化~ハリボテや書割りの大胆~アニメ的描き加え~敵も味方も濃いキャラ、らで子供向けを越えた自由さ·因習なさ·拘りなさ、で気負わずもぐんぐん平明に進めぬき、徹底した反暴力や、人に尽くすのが人間の条件、を貫き切って、ありきたりのスペクタクルやカタルシスを拒んでるが、見事。仙人~王(皇帝)指名の13歳の三蔵法師と悟空らお供3妖怪の師弟カルテットの成立ちから、唐の国に病·災害をもたらし·それを救う為に国境を越えインドに経典を授かりに向う一行の阻止を図る悪魔大王と金閣·銀閣ら四強の、ハリウッド·宝塚レビューやベタ·コメディキャラの華やかさ迄。好戦へ決して向かわぬ。一行を導く団令子の「ポン」は観音そのものの化身か、三蔵の旅の途中故郷で亡くなった彼の母の天竺で待つ姿か、という括りもいい。
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 そして『~狸の~』。戦前の軽快で正確、贅肉のないタッチが戻ってもきてるようで、競輪場から街中追っかけまで、パン·フォロー·どんでんや90°変·切返し·(げんかんら)内外、実にしっかりスマートに音響も効果的に、進みまくる。只、その割合には、スタイルに昇華·突き詰める次段階には至らず、細部の説明不足を時折感じさせ、森繁·司といった見るからにやり手上手キャラの味の加えも少ない(三木·淡路·山茶花らは主演の桂樹と上手く絡んでるが)。あっさりスイスイも、本質変らず、その中のニュアンスこそを見つめ·ささやかに称えてる感。
 競輪狂で家族にも見離され、常に金の埋め合わせと当面の安泰をセコく考えてる男が主人公。自らの生来の悪意感じさせぬ演技力·手八丁口八丁に思い当たり、タバコが簡単に現金化出来るに目をつけ、あちこちのタバコ屋に近くの店や役所を名乗り大量注文·追加注文中に持逃げを繰り返す。その種の詐欺を、取調べ·獄中でもまた出所しても、姑息にリアルな演技力で繰り返す。余りに取得金が大きい時は、自首·返還を考える位の小心者だが、騙し·見破りの好敵手となってく刑事と表面は出し抜きあい·切磋琢磨だが心が通じてきていて、騙した相手がよりあくどい時は、(共闘)やり込め側に廻ってくれる。それでも、最優先したい、現妻(と娘の家庭)·留置所での交際相手には全く相手にされずコケにされるを繰返し、自己の真っ当生れ変りは彼岸でしかない。作品への思い入れの節度と品位がこの作家の隠れた矜持か。
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