雨のなかの男

白い肌の異常な夜の雨のなかの男のネタバレレビュー・内容・結末

白い肌の異常な夜(1971年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

U-NEXTで。ソフィア・コッポラ版をこれから観るので復習。久々に観たが、こんなに面白かったっけと感動。映画的技法が盛り込まれていて、それだけでもう面白い。女性たちのモノローグやマクバニーの言葉と全く噛み合わない戦火のフラッシュバック、男女がまぐわう絵画のディゾルブ、去勢の暗喩としての人体切断…と、映像による語りがあまりにも滑らかで来る終わりに向けてどんどん引き込まれていく。少女キャロルに繋ぎ止められたカラスがマクバニーの悲劇を余事している点も不気味だった。生殺与奪権を握っているのは誰でもない少女キャロルだったことや、彼女の救済ととどめが対になっている点も面白い。先のソフィア・コッポラとの関連で言えば『ヴァージン・スーサイズ』のように「乙女の領域」に入り込む物語だが、あちらは姉妹それぞれの視点を省き、「個性」を剥奪することでその神秘性を描いていた。一方で本作は女性それぞれにモノローグあり、「女性」を単一化せず描いている点が面白い。当たり前だが一枚岩ではない個々人の感情・思考が渦巻き、最後に結託されるからこそ恐ろしい。去勢の暗喩として足を切断された後も男性性を補うために男根的な拳銃を手にするのも面白い。同年の『ダーティーハリー』でも象徴的なその拳銃はドン・シーゲル監督の男性像の表象が見て取れる。別の考察だが、これら1971年のクリント・イーストウッドの俳優イメージの振り幅は、一種の時代の要請のようにも思える。同年代の映画において、男たちは死んだり泣いたり病んだりするが、本作もその流れを汲んでいるように思う。本作の脚本をイーストウッド自身が気に入ったというのだから興味深い。この後に公開されるイーストウッドが初監督の『恐怖のメロディ』も彼自身のタフガイ像を切り崩しにいく作品だが、やはりこちらの方が圧倒的に悲惨で映画として優れている。
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