レインウォッチャー

脳内ニューヨークのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

脳内ニューヨーク(2008年製作の映画)
4.0
トーキング・ヘッズの代表曲『Once in a Lifetime』は、人生の中でわたしが立っている場所をふと思い出させてくれる楽曲だ。
ヴァースでデヴィッド・バーンは歌う、というよりは列挙するように語りかける。「君は、気が付けば大きな車に乗ってるかもしれない」「素敵な家で美しい妻が待ってるかもしれない」。

そして最後にこう結ぶのだ。
「君は自問自答するだろう、”Well, how did I get here ?"(ええっと…いつの間にこうなった?)」

さて、この映画『脳内ニューヨーク』からも、妙ちくりんにヒネくり散らかした語りの向こうから、同じバイブスを感じることができる。(そういえば、トーキング・ヘッズもニューヨークのバンドだった。)

冒頭から、P・S・ホフマン演じる中年の演出家・ケイデンは明らかに鬱々として、不安と後悔の中に生きている。
季節の秋が人生の晩年と重ねられ、病気や死の話題ばかりが気になる。画家の妻は夫婦カウンセリングで「たまに夫の死を期待してしまうんです」と吐露する。舞台(おなじみ『セールスマンの死』)が成功しても、「所詮は他人の戯曲」と心は晴れない。

やがて彼の周りでは、人生のイベントが知覚を超えて過ぎ去っていく。離婚、再婚、近しい人間の死。時系列が時折傷のついたCDのように飛び、不条理なことがしれっと日常に紛れ込んで観ているこちらを翻弄するのだけれど、それはケイデン本人も、他の登場人物も同じに見える。

この幻覚的、もっと言えば病的に見える演出は、ケイデンと一緒に人間が誰しも平等に抱えている唯一の病「死」を体験させてくれるものだ。
あれこれ悩んだり忙殺されている間に、人は子供の頃から心はそんなに変わっていないまま、気が付けば知らない世界に生きて別人になっている。そしてある日、死に肩をたたかれて初めて思うのだろう、”Well, how did I get here ?"と。

ケイデンは、一生の証を残す意義を信じて「自分の人生をまるごと複製する(=作り直す)」大規模な舞台づくりに着手するのだけれど、それはサグラダファミリアの如く増殖するばかりでいつまでも完成しない。自分役の男、妻役の女…などが入り混じり、現実と演劇の境界、更に自分と他者の境界すらみるみる崩壊する。

映画の殆どがそんな調子なのでなかなか疲れる体験でもあるけれど、その行く末はシンプルで、納得感をもった悟りがある。過去、思い出をコピーして反芻したり後悔すること(※1)に時間を費やすのは虚しい、分かち合える誰かと新しく生まれ続ける今を生きるべきなのだ、と。兎も角、わたしはそう受け取った。

これは映画や演劇を作ることや観ることにも通ずるように思う。願わくば、このややこしくも愛おしい映画が、あなたの「今」あるいは「これから」にならんことを。

"Once in a lifetime, water flowing underground."


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※1:劇中で、ケイデンに想いを寄せる受付嬢ヘイゼル(S・モートン)(かわいい)が現れるのだけれど、彼は女優クレア(M・ウィリアムズ)のほうに転んでしまう。これは、女優=より自分に近い存在(最初の妻も画家)を人生の選択肢では選びがち、っていうことの象徴にも思えたりする。
ていうか、今作はほかにもD・ウィースト、J・J・リー、E・ワトソンと女優さん豪華パック。