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太平洋航空作戦のニューランドのレビュー・感想・評価

太平洋航空作戦(1951年製作の映画)
3.6
☑️『太平洋航空作戦』(3.6p)及び『女の秘密』(3.5)『夜の人々』(4.4p)▶️▶️

昔·半世紀前、こどもの頃立ち読みしたゴダール(全集)でなくても、レイは映画と同義語⋅そのものと意識しなくても思ってしまう。映画の基本か⋅絶対か判らないがそんな法則に叶ってる、と言うわけでも、また、自らの力で映画の未来を作り直してる訳でもなく、呼吸し感じ踏み出す、生命体としての行為が気取らずとも、映画であるという。
初めて綺麗な状態で観た本作『太平洋~』でも、(発表当時はともかくニューズリールのデュープ部分や合成外景は経年劣化してる部分は補修無理だったよう⋅そうでなる前でも)費用や技術で戦闘再現無理で迫力頼みの実戦記録カット引用、それなりに演習的に丸ごと今撮った部分、動かない模型と人の等身大をセットに置いてのカットらで組み立てられてる大作でもない作だが、人らだけのシーンも入れて、僅かから平均的なサイズ変、サイズが違うのの思いきった対応⋅呼応、らがカッチリ切り取られ、組み立てられ、大掛かり⋅流麗なカメラ移動は避け、フォロー(パン)や動かない対象へ寄る、くらい。その潔さ⋅狂いなさ⋅映像美への頼らなさ、は揺るがず⋅散財した真実⋅現実の映画処理となり、反発から感化のライアンの、テントを出そうになって掴みを離さずくるっと戻ってぶちまけるカット、機内で隊長の前に血縁の兵の援護の進言を却下する表情カットら、に達する。
海兵隊の飛行機中隊の、負傷⋅前任隊長の推薦なく新任隊長を迎える、人気はある据置き副隊長の、試練⋅成長の話で、カダルカナルから沖縄戦始まる時期が舞台。休暇⋅個人事情や個性はみ出しをある程度認める副隊長に対し、高度戦法の近接⋅低空飛行を守り、息抜き⋅逸脱を一切認めぬ厳格な新隊長。隊長に恩感じ亡兄の仇を誓ってる者、先住民の血をひく独自決意の者、独断専行癖の者、頼りになる奴、らの部下らの死が続き、遺族への配慮忘れず、死への怖さに誰しも隔たりはなくも、厳粛崩さぬ隊長。頑強⋅巨大でカミカゼ特攻も厭わぬ敵、内地も苦境の中、掃射⋅爆雷撃⋅護衛の効果あるもひとつ間違えば味方に被害の戦法、らの到達への絞り込み必然が伝わり⋅1度は人間性欠如に憤り袂を分かつかに見えた副隊長はいつしか同化、親戚隊員の不調帰還に護衛を割かぬ程に成長し、隊長の座のバトンを受ける。「胃痛に苦しみ⋅悔いと反省ばかり、それでも厳格を崩さず」。それにしても、そんな隊長でも、味方の備品をチョロまかして、自隊をひもじくさせぬ、旧知の部下にはおお甘どころか、頼ってる。ヒューマニズム以上の、心の尽くし⋅元を崩さぬ為の目先の高レベル堅持の厳しさは、気負いなく確かめられ⋅鍛えられてく。
スタイルと、スタンスの、自然な厳格⋅厳粛さ。映画としての期待⋅バジェットは違っても、スピルバーグの最高作『~ライアン』に劣らぬ戦争映画の名作の感。押し付けがないので、一見まるでそう見えないが。日本軍がしっかり畏敬に値する存在として描かれてるは溜飲も下げた。
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『女の~』は『~ケーン』のライター兼製作リード者の、時制⋅回想⋅真相探求の一見錯綜⋅推理⋅告白(時制)ものだが、『~ケーン』と同じく、実はそんなにたいした秘密は存在せず、それへ向かう者のスタンスのニュアンスを味わう、ミステリーより人間輪舞?形式の作で、むしろまた『~ケーン』と同じくセンスある演劇的印象の受け取りをするのだが、その与えられた枠に、退きの図のパン⋅ティルトや並行フォローでのステージ全景を与える力から、寄りめやフルめでは、仰角⋅俯瞰めや影の陰影⋅更に縦や斜めめの詰込みの力で、映画の呼吸そのもののニュアンスを与え、表面を越えた枠と躍動の揉み込み力が気づかれずある。
NYで人気絶調の人気歌手が射たれ、彼女を育てたマネージャー的女の子が逮捕される。 その女も嘗て頂点に近づきかけた歌手だったが、突然、歌う声を失って失意の時、自分に代わる逸材に出会い、放送網にも出てるピアニストの親しい恋人の助力もあって、歌唱ばかりでなく作法⋅アピールまで自分如く完全一体に創造⋅コントロールしてく熱意と執念が身を結び、名家の弁護士の(婚約付き)バックアップも取り付けて行く。が本来、極めて奔放⋅逸脱癖つよく独立自力でやってきたい、また、この仕事に執着まではない、身代りは、姿を消したり⋅変な相手と結婚までして、対立⋅混乱を強めてく。いい加減なその結婚相手から渡された銃を取り出すをみつけて、マネジャーの女の子が止め、もつれるうちに発砲。記憶真っ白や相手への配慮で2人は真相に触れない。
「こういうケースは真相は別に」と、事件捜査の警視正の妻が言うような、判りやすい事件を、回り道⋅より道を半ば楽しみながらのニュアンスの柔軟⋅かつその上の確かさを味わう作品。無理な目標⋅制約⋅恩義の(自他)縛りから、プライベートなベースに2人の女主人公は解放されてく。取り巻く人々め含め、強面の男も各々の、キャラの可愛さ、特にグレアム。オハラと銃を奪いあう集中力ある舞踏的形とスピード。
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『孤独な~』『大砂塵』『理由な~』『~報酬』『暗黒街~』『ウィ⋅キャ~』らと同等に、特に全編にわたり印象が高揚し続ける作品、処女作『夜の~』は、スタイルを決めずに、美しく速めも言葉にならぬ魅力的な夜の川の流れの無意識感得を思わせる。30年ぶり位に観たが、当時のプリントが何か重ったるかったのに比べ、特にいいというわけではなくも⋅しっくり正確めで、その全貌の現れに改めて驚く。
同じ題材⋅人物のアルトマン版も素晴らしくいいが、やはりこっちが上。非道という世評と裏腹の、純粋の極みのカップルの真実、云々と気をひいて、実際「巡り合えぬ、一生の伴侶、一緒で離れる事はない」2人の奇跡⋅軌跡に立ち合ってく。十代から数年務所暮らしでウブなまま、また、分別というより、相手を無碍に出来ない柔い資質で、脱獄→強盗(繰返し)→逃亡→射殺の流れに乗り、他人に希望見出だ(されも)すも⋅騙されるか⋅いなされるも、より大きく純粋な相手に(命は断たれても)行き着き⋅戻ってくボウイ。脱獄の仲間⋅というか先達たち(その個性と家族の絡まり、その中での少年の成長⋅頼もしさうまれ、もなかなか)の、待ち受けて一味の(命落とす)兄弟の娘で、周り⋅世間が、ボウイを利用しようとしたり、彼を一味のリーダーと話題性へ誇張⋅囃す中、唯一等身大に受け入れ、妊娠や体調悪化に至るも、変わらぬ素朴さ⋅そしてより強さ増すキーチ。メキシコへの途を改めて頼った、結婚儀式を簡易引き受けの副業の男=大人も、「間違ってても、金欲しさでは応ず。しかし、希望あり得ない事には」と冷淡にまんまを見⋅判断し、2人を売ったは、仲間の夫を射たれ失った、その妻の思わね小心への変容。犯罪は、プロの手口披露ではなく、恋の芽生え⋅あわさり⋅流れると同じに、中身はともかく、手つきはナイーブ⋅ナチュラルな美そのものとして、異質に描かれてく。
タッチも、まるで定まらず、定見がなく、只美しさと瞬間の選択の感覚の貴重さ、だけが孤高の無意識で求めらてく。何の驕りもはやる気持ちもない。車の俯瞰め延々フォローから、夜の野の大看板辺りで1人待機までのクレーンワーク、2人の出逢い(車で捜し⋅迎えくる)の切返しの動き⋅意識と解れの都度の変容とキレ。上空いた車で調べる警官を射つ、切返し抜きの俯瞰め1カット内の見えない弾の通過(感)、J⋅H⋅ルイス張りの犯罪前後のウロウロと⋅直後者乗せるまんま長回し一気臨場収め、かと思うと少し後では車外スクリーン⋅プロセス。そして2人の情感に沿う、CUへ溶け込みのデクパージュ以上のもの。遠く汽車音から⋅一斉射撃されたボウイの崩れ落ちる形、銃声に床から駆けつけるキーチの動きのアップ連の繋ぎ、共に効果をうまない⋅身体の動きとカッティングの嵌まりを棄てた処理に見え、ショットとカッティングの別要素が互いの特質を消し合い、観たことのないスペクタクルか生命そのものになっている。
純粋な映画とは、小津かブレッソンの事をいうのか。が、小津は敢えて僅かの違和を溶け込ます事で、映画の正確と厳格に達し、ブレッソンは俗や映えを削り落とし、素朴なままの純な軌跡に達せんとす。レイにはその余分がない、或いは余分をそのように捉えない。(個人的には、映画そのものに興味があるわけでもないので信奉者でもないが)
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