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銀座の女のotomisanのレビュー・感想・評価

銀座の女(1955年製作の映画)
4.0
 「銀座の女」と紹介されてのぞいてみたら新ばし芸者。名乗りを上げて一世紀、各界お歴々の社交場新橋も、すでに「銀座の」なんて括りにされるご時世だったんだ。
 それもそうだが、芸者居るところ男ありとなろうものがサッパリそういう成り行きにならない。置き屋「しずもと」の女将の気掛かりが老後の暮らしの事でなんて、映画のネタにもよく考えたもんだ。そんな世知辛い生活本位の舞台裏をケロリと見せて、その上でなお男に裏切られるという、表も裏でも女はつらいよというわけだが、ざっと損得を較べてみよう。
 【男】学費生活費を面倒見てもらっていずれは養子に入り女将の老後を看るはずの東工大生矢ノ口はヒモ紛いな身の上に嫌気がさしたそうで絶縁宣言するも、これまでの2年間を自虐ネタ小説に書いて文学賞を受賞、まだまだヒモに甘んじた精神的拷問からインスパイアされた物語が生れつつあるといい、女将宅の怪火事件の参考人聴取さえ新作予告会見にしてしまう。
 【女】そんな矢ノ口に打っ棄られるのは女将だけでなく、岡惚れしたバーのマダムも同様。稼ぎのために息子を田舎に預けた紫姐さんは50円の宝くじで母子水入らずのつつましさ。国税職員の兄の動静伺いで引っ張りだこだった琴枝姐さんは兄の転勤で一転して閑古鳥。とどめを刺すように「しずもと」から火が出て、気が変になった女将が放火を「自白」したかと思えば、兄の七光りが失せてパッとしない琴枝姐さんは一発パッとしようとこれまた放火を「自白」し、さらに行き詰った「しずもと」をなんとかすべく残ったみんなで合議の末、見習のサトコまで「自白」してしまう。男の何だかんだ言っても立身するのに、女はもう七転八倒である。
 こうした男女の浮かび浮かばずが、この世の仕組みそのもののようにも見えるのは、遂に自白したサトコが福島から身売り同然で上京した経緯からも感じられるだろう。ただ、当時はというか、「しずもと」の仲間うちではそれも普通の事、似たり寄ったり女の常と受け取られていたのだろう。
 戦争から10年、焼け跡暮らしに比べれば半焼けぐらい再建の手間が半分で大助かりとでも思うんだろうか。病身で放火犯のサトコの身の上をみんなで一緒に泣いてやって、サトコが更生して戻ってくるまでになんて、肺病のサトコは更生してももう新橋には戻れないのを分かっていない。分かっていなくてもそう思えれば再建の手間の半分ぐらい何程という気になれる?
 やはり間違っているんだが、誰がそれを告げられるだろう。それを告げて知れる現実に何の光明があるだろう。それでも張り切らなくちゃと駆け出すところに腕に自信の姐さん方の気っ風を感じないでは居れまい。

 話は替わって冒頭「しずもと」の前の女将が向かうのが今もある高井戸の「浴風園」その北門であった。そのバス通りの向かい、北側には神田川、井の頭線、丘の先には人見街道が通じ、その左手が富士見ヶ丘である。
 その浴風園養老院の慰問風景のニュース映画に今の女将はやきもきするんだが、実は前の女将はバス通いで入院者でない。ああやって呼び声が掛かるくらいだからどっこい引っ込んでも達者でやってるわけだ。まさに芸が身を助けるわけで、元芸者も結構なもんだ。新橋花柳界の様子も「もういちど日本.新橋芸者」(2019. NHK制作)で様子が知れる。
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