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東京暮色のotomisanのレビュー・感想・評価

東京暮色(1957年製作の映画)
4.3
 抑留10年を経て戻った東京はさぞ眩しげだったろう。ロシア人が喜久子をこうも長期にわたって拘束したのが何故かはこの物語の筋には関係ないけれど、当時の人なら在露十年ながらおよそ衰えを見せない山田五十鈴の風情に自ずと彼女を留め置いたロシア人的理由が腑に落ちたろう。それとともに喜久子の駆け落ちに至る事情も納得いったに違いない。そして明子もまた自分という者を知るうえで、父親や姉・孝子とは似ない我が身の元が紛れもなくこの母親である事、さらにはこの母によろめいた山崎にある事を疑わざるを得ない。
 この母親に似たがために明子はケンと通じ、悪所への出入りにも慣れ、子どもまで身籠ってしまった、と追い込まれる。父と姉には内緒の世界でこうして行き暮れて、ついにその子を堕すに至るのだが、あの母親さえ迷い込まなかった隘路に佇んでもはや帰るべき道も知れない思いだろう。
 踏切事故を生き延びて再会する父と姉に死にたくない、生き直したいと告げる言葉が、あれは事故であったと示唆するようであるが、二人の面前で自殺の覚悟とその理由は語れまいと思う。今わの際で死にたくないのは偽りないとしても、ケンにまで寄る辺を求め得ず、母親さえ振り切ってしまった自身にどんな生きる甲斐が残っていただろう。昨日の延長をどう生き直すのだろう。
 それでも父と姉の顔をまた拝んで、こんな自分も一人ではない事を承知する。しかし、堕した子のことまで打ち明けられるだろうか。その逡巡の中、母親より惨く子を捨て、それを誰にも打ち明けられないという孤独を心残りにおいて死んでゆくのだろう。

 この物語を以って監督は暮色と告げる。その闇にむかし妻であり母親が吞まれ、今またその娘が呑み込まれる。家の灯りに背を向けたように闇に沈む彼らはその奥にどんな希望を認めたのか、それとも、夫のいない家庭、母のいない家庭にどんな失望を覚えたのだろう。
 長女・孝子は二人のありさまに自らを省みてわが娘のために不束な夫の元に戻るという。父親は自らは何一つ望んでああして来たとは思わないだろうが招いてしまったこの結末にいつもの日常をまた重ねて生きるほかない。戦後が終わって春未だ来、朝の坂を下る足取りの速さに、夜ひとり居の我が家が待つ坂の上への重い足取りを想像してしまう。多くの男たちが戦場に赴くところを京城赴任で免れたものの家庭を守れずに終わったツケが、妻の影として、また、娘の消えゆく後ろ姿としていまだにこうして回ってくる事を、そんな夜の家路の度に追懐するのだろう。

 ところで、東京暮色と聞いた時思い浮かんだのは"ウナ・セラ・ディ・東京"である。ところが聞こえてくるのはあの劇伴であり、見せられるのはあの物語である。
 それでも、岩谷時子の告げる「後ろ姿の幸せばかり」がふと、母・喜久子と娘・明子の去りゆく姿に重なってくる。それが実りない束の間のしあわせでも女二人には闇の奥の明るい出口と映ったのだろうか。反対に、いけない夫でも父親でもないのにどうして別れてしまったのか、東京を去る喜久子、この世を去る明子、この二人もまた、ともに置いてきた家庭の後ろ姿をただ見返すだけで、闇に互いを見失うのは家族4人みな同じと思えた。

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 余計な話だが、岩谷時子は著書「愛と悲しみのルフラン」(講談社刊)の中で、「一人の娘が、幸福になるために嫁いでいけば、その影に孤独な明日を噛みしめる親がある。」と記しているそうだ。「ウナ・セラ・ディ・東京」の元の曲、「東京たそがれ」の発売は1963年11月、小津の亡くなる前月である。病床の小津はこの東京暮色に気付いただろうか。また、岩谷もかの「東京暮色」と小津映画を見知っていただろうか。

 岩谷の事を教えてくれたのは、こちら。

 佐藤剛「岩谷時子に魂を入れてもらって誕生した ザ・ピーナッツの名曲『ウナ・セラ・ディ・東京』」(2018/2/16)「https://web.archive.org/web/20180413035102/http://www.tapthepop.net/song/74199」所収
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