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影なき殺人のニューランドのレビュー・感想・評価

影なき殺人(1947年製作の映画)
3.8
☑️『影なき殺人』及び『恐怖のまわり道』▶️▶️
語られなくなったエリア・カザンだが、変わらずアメリカ映画の最高峰のひとりで、持ち上げられてるサーク・ベティカー・Aマン・レイ・ターナー等の所詮B級の監督とは違う、という声は我々の世代では結構根強い。半ば笑いながら聞き流すしかないのだが、本作のような、クリアでごまかしのない画面、映画的デクパージュは軽視しても、また、ドラマ的妙味や悲愴感は避けて、社会・世論・政治に屈しない只客観的真実、人の命を犠牲にもする個を超える力の反正義への拒み、を追い定着の方向・軌跡を作ってゆく、メディアと作家の使命を果たすに集中した作品を改めて見せられると、そういう見方も満更でもないと思ったりする。個性派名俳優を多数決使ってアンサンブルが見事だが演技没入は許さない。地方検事として、『有罪の確定よりも正義・真実の根拠』を追及し、世論・メディア・背景政党(改革派も素人と揶揄されがちで実績作りに躍起)や検察・警察の支持の喪失の受入れや、政治力の介入・その裁判利用の拒否(それに染まった友人の自死までまねく)は、判事にまで資格の喪失を問われるが、怯まず・当然如く、攻め方を変えて被告人の無罪を立証してゆく、自白や証言の無意味を証してゆく。邦画新作の『新聞記者』がとてもこういった客観力を持ってるとは思えない。
本作はちと極端だが、初期のカザンは、巧みでシャープな『暗黒の恐怖』等を例外にすれば、生硬・誠実・直線的・即場的で、映画的にはどうかの面もあれど、貴重でいまも新鮮だ。ところが『波止場』あたりから急にタッチ・内容・語り口が一体的に映画的にこなれ洗練されメインストリームの、掴みものせも香気も一級となってゆく。それは赤狩りに対する屈服の時期もかぶってて、奥に表に出るをはばかってるような屈折感の苦渋が秘められるようになる。『荒れ狂う河』『草原の輝き』等はしかし、同時に極めて美しく自分に誠実だ。その後は、映画100年記念・三時間に渡るTV用大作『アメリカ映画史』の掉尾を飾った、ストレートとはやや別次元の迂回の味わい感動作『アメリカ・アメリカ』(やっと数年前からBSでまた観れるように)を初めとする、自己出自やベ戦争・ハリウッド史を掘り起こしてキャリアを終える(分厚い自伝があったか)。
ウルマーの代表作は、カザンのいずれにしても個人の尊厳を扱って、映画を超えた大上段の力がみなぎってるのに対し、主体性や正義に無縁の、運命に流され逆らえず卑怯未練の、うわべだけが実体となってる人間たちが出てくる・入れ替わるばかりである。死や殺人に対しても、意志も悔恨もなく、ただその結果から逃げることしか行動原理にない。ただ、剥き出しの映画の自己主張が画面をこちらに向かって突き破らんとして迫真を超えて活きる。そのカメラの縦への等ストレートな迫り方や戻り方、顔への周りを落としての部分証明への絞り方、ひたすら切迫・映画魅惑を高める音響、スクリーンプロセスもあからさまな車中の二人の満面自己主張の力、ナレーション・回想・電話も何もかも客観・冷静さをもたらさず諦観だけが明らかに、死の訪れ・実現のあまりに呆気ない展開としてあり得ない短絡・唖然さ、それは人と世界を激変させる力も持たず安っぽい現実だけがあらわになってくる。描写も考え方も一般にもっともらしく語ることも憚れる様な世界。しかし、これこそが映画の力・真実に違いないと確信させ続け、その間カザン的良心との葛藤・正義の希求も消失してゆく。
B級云々以前に、万を超える映画鑑賞本数を誇っていても、ウルマー等名前でそんなのあったな、くらいの認識しかない人が、日本では今でも結構多い。
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