故ラチェットスタンク

太陽を盗んだ男の故ラチェットスタンクのレビュー・感想・評価

太陽を盗んだ男(1979年製作の映画)
4.5
『The Power of The Sun,In The Palm of My Hand.(太陽の力が、私の手の中に。)』

 さもありなん、爆発とは最も映画的な事柄の一つだろうが核爆発となるとその強固さは計り知れない。おまけにそれが虚無主義と結びつくと凄まじい化学反応を引き起こす。この二つが映画という虚構的物語形式にあまりにも合致しすぎているからだ。

 日本の戦後のイマジネーションの多くには原爆的なイメージが重ねられていると耳にしたが今作もそこに連なる一作なのだろうか。その辺はイマイチ分からず。

 しかし、虚構的な舞台装置の極地としての(それは非日常であり、映画である)原子爆弾というモチーフとして読んでいくと意外と解釈しやすいというか普遍的な物語として読めるのかなと思った。(不躾かもしれないが、映画の読み方として許してほしい)

 この装置を巡り、主人公の「スゴいことなんてない」日常が劇的に変化していく。みんなが彼を見てくれる。イデオロギーも何もない男が非日常を作り出そうとする。作中で主人公はテロリスト的行動を行うが、実のところ本人には何の政治性もない。退屈を食い破る非日常を顕現させる、映画的・物語的な演出でしかないのだ。しかし、そこには反動も付いてくる(被曝の症状)。人としての生が削られてしまうのだ。

 今作は要は恋愛映画である。それも主人公から世界に対しての。主人公は原子爆弾という力を使って歪んだアプローチを行う。しかし彼自身には誰も気づいてくれない。

 加えて、主人公がほぼ誰からも気にかけられなかったのは勿論、気にかけてくれた人にすらカッコばかりつけて本心で向き合わないという行動を取り続けてしまうのが悲痛だ。他人に見られてこなかった人は他人に見られることができない。当然、他人を見ることもできない。マジで悲しい話だ。

 菅原文太の台詞が主人公の核心を穿つ。(=「お前を殺したがってるのはお前自身だ。」)

 「あなたが気に入っていないのは、あなたの現実である。」あなたの歪んだ現実が、他者の現実を踏み躙っていく。そこに(無邪気かつ楽しげに)思いを重ねる者もいる(=沢井零子)。それを止めようとする者もいる(=満州男)。しかし最終的には歪んだアプローチにより世界との繋がりの可能性は断たれてしまう。他でもない世界と、彼自身を壊し飲み込むことで。

 バスジャック事件で非日常へ目覚め、プロトニウム強奪で非日常へと飛び込み、原子爆弾を手に入れて非日常を社会の中へ組み込もうと試みる(世界へのアプローチ)。しかし最終的に彼自身も非日常に飲まれ、カタストロフそのものになる。この辺の導線。

 この時代の荒んだ空っぽな空気はもちろん、キメ画バシバシ入ってるし、アクションシーンは普通にヤバいし、ゲリラ撮影したとこも画面の密度が高すぎて最高だった。最強のエンタメ。