ヤマダタケシ

ポゼッションのヤマダタケシのネタバレレビュー・内容・結末

ポゼッション(1981年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

【浮気の罪悪感の話?】
 まぁ今作印象的なのは〝長期の仕事から帰ってきたら妻が浮気をしていた。その相手を探って行ったら触手のバケモンだった〟ということだろう。
 まずこの触手バケモンはホントに実在するものというよりは妻にとっての浮気のメタファーとして見る。
 夫がいない間、彼はハインリッヒという男と浮気をしていて、夫の帰宅によりその浮気相手と決着を着けようとする。妻の浮気は、妻の親友の言葉や彼女自身の言葉から推測するに、単純にハインリッヒという男に惹かれたからというよりは(その部分もあるが)
・相手への不満
・寂しさ
・自分自身の変わりたさ
 などどちらかというと相手というよりも自分自身の内面にその原因があるものであるように見える。
 そして、そのため物語は夫と浮気相手の戦いというよりも彼女自身の中の
・夫がいながらどうしても他の男性にも惹かれてしまうこと
⇒ひいては今与えられた〝幸せ〟というものにもどこか足らなさを感じてしまうこと
 その彼女のどちらかというと(仮にこの言葉を使うが)本能の部分で求めている自由、選択する主体としての自由と、それによって自分が大切にしていたものを傷つけてしまうことへの罪悪感の激しい葛藤を描いていて、
 彼女の中で自分が自分であるゆえの欲望(すでに持っている幸せ以外に他の幸せの可能性を求めてしまうこと)=自分の中の邪悪な部分(夫や息子を傷つけ、狂わせる)をいかに抑え込もうとするか、しかし抑え込めないという激しい内面での善と悪の戦いが描かれる。
 この部分に関しては、実は去年観た2本の邦画作品『美人が婚活してみたら』『ホットギミック』を連想させるものだった。
つまり自分自身が相手を選ぶ主体であることに気づいていくことと、選ぶ主体であることによって相手を傷つける存在であり、選ぶ局面に立った時正しさとは別の〝自分がこうしたい〟という方を選んでしまうこと、そしてそれは相手というよりはあくまでも選ぶその時の自分自身に起因するという、まぁ長々と書いたけど〝自分自身が選択する主体であり、正しさとわがままではわがままを選ぶ人間である〟ことに気づく物語である、その自分の中の不道徳な部分とそれでも自分であることの間で葛藤し、不道徳と言われようとその自分自身を受け入れる物語である。
だから『ポゼッション』で描かれるのは、夫の目線から観た彼女の、その内面の葛藤である。彼女の最終的な浮気相手がハインリッヒという現実の人物ではなく触手のバケモノなのは、それが彼女にとってハインリッヒというよりは〝自分を愛してくれる存在を傷つけてまで他の何かを求めてしまう邪悪な行為をしてしまう自分自身〟との行為である、それがより純粋な浮気だからだ。
去年の邦画二作品ではその自分自身の中にある残酷な主体であることの発見とそれを受け入れることが描かれていたが、今作ではそこに対する罪悪感は大きく彼女は次第に狂って行く。
夫の愛の告白や何とかやり直すことを提案することは、彼女の〝この幸せに留まりたくない想い〟を強くさせ、同時に彼女の中の夫・息子に対する罪悪感を強める。
その結果、選択する自分であること=邪悪な存在であることとして彼女は覚醒していく。それは善悪の戦いとして描かれる。
【溢れ出す内面】
 と、途中までこれはある種のメタファーとして描かれた彼女の罪悪感の物語だと思って見ていたのだが、後半メタファーだと思われていた触手は触手自体として、妻の内面から外れた邪悪な存在として立ち現われはじめる。
 そしてラスト、夫の姿に成り代わった触手が2人を殺し逃げて行く。彼は次のエモノである女教師のところへ向かうわけだが、そこでタルコフスキーの『サクリファイス』を連想させるように、突如アルマゲドンの勃発を連想させる爆音がスクリーンに響き映画は終わる。
 ある時点までは、ある夫婦の、ある女性の内面の葛藤であった戦い、その悪が、いつの間にか実際の肉体を持った存在として立ち現われ、その内面の主であった妻を越えて動き始める。
 妻の内面の葛藤であったはずの善悪の戦いはいつの間にか世界の善悪の戦いにとって代わる。その戦いは彼女の内面の戦いの結末とは別に進んでいく。
 ここで連想したのは同監督の『シルバーグローブ』という作品で、そこではある人物たちの内面を反映させつ作られたであろう世界というものが、いつの間にかその創造主であった人達の内面を越えてそれ自体として存在し始め、作り主の制御の範囲を超えたカオスになっていく様が描かれた。
 同様に今作でも、妻の浮気という行為自体の罪悪感を反映させた触手がいつの間にかそれ自体として存在し始め、彼女が思う自身の〝最低な邪悪〟を反映させたそういう存在として動き始めていた。
 ある意味で、妻の選択する主体としての自分の発見の先にその過程で生まれた罪悪感自体の主体の発見があったような。

 傑作