Masato

セブンス・コンチネントのMasatoのレビュー・感想・評価

セブンス・コンチネント(1989年製作の映画)
4.3

鬱映画特集51本目

50本突破記念は尊敬するミヒャエルハネケの初監督作であるこの作品。

感情の氷河期3部作の1作目

鬱ランクC

ジャンル:崩壊

ネタバレ若干あり


解釈の価値を問う

ものすごく前衛的。さすがハネケと言うべきか。ハネケのことだから、劇中にさまざまな解釈のヒントが隠されているとみたので、必死にこの映画の答えを探した。しかし、見つけることはできなかった。私にとっては非常に難しい。そこでインタビュー映像を見た。何かわかったような気がする。

この映画は実際の事件を基にしたそうなのだが、あえて説明を省く。これはハネケらしさがある。メディアはその事件について事細かに説明をする。しかし、説明をすることで、そのものの行為の持つ力を弱くしてしまう。

成る程と思った。「説明」をしすぎてしまうと、全体像を容易く掴めてしまう。そうすると過程=行為への注力は疎かになってしまう。説明が無いことで、見るものは、「なぜ、こうなっているのか?」と理由を「行為そのもの」を見て探ることとなる。この映画は、フラグメント(断片)=行為だけを写し、その間にある「説明」を省くことで、行為そのものの力を強く見出す。

「隠された記憶」を見たときにも思ったそと。それは、だんだんと隠された過去が露わとなってくる中で、その人・モノから見えるものだけでは知り得ないものが沢山あると感じた。だからこそ、それぞれの行為に興味を持った。同時に、真実など確実に見つけられることはないとも感じた。だから、分からなくても良いということを知った。

偽りの情報を与え続けている従来の映画技法にプロステストする作り方と言っているが、それを言えば、「説明」をするということは、多岐にわたる解釈の中で、1つの解釈に限定してしまうことだと言える。だとすると、「行為そのもの」には、沢山の解釈という名の情報量があるということになるだろう。

「万引き家族」見て思ったのだが、メディアによる情報の価値に疑問を持った。ハネケ監督が言うように、記事は事細かに書かれている。行為についての説明(原因)も下世話にゴシップ的に書かれていたりする。しかし、その説明は本当に正確なのか?人の行為とは文面に表せるだけのものなのか?だからこそ、行為だけを抜き取り、考えるのが大切だと。

繰り返しになってしまうが、この映画は、ありふれた中流階級の行為を淡々と反復的に描いている。対して、破壊行為が行われる。共感もない。「説明」もない。監督がこの事件についてどう思うのかも「説明」が無いので、わからないし、そもそもこの事件?の真実もわからない。わからないことだらけ。それでいいのだ。ハネケ監督も分からないだろうし。

人間は理屈を求める動物である。解釈が真実の側面であることを認識すればよいのではないか。ハネケ監督の作家性の原点になる映画だった。鬱すらあまり感じない冷たくメタな映画。まさに感情の氷河期。我々の固定概念をひっぺがすハネケ監督は本当に異常。

説明が物語を饒舌にし凡庸にする…かあ…あえて自分の解釈は出さないことにした。解釈そのものがこの映画にとって無意味であることが分かったから…それも私の「解釈」

意味不明なレビュー ご静聴ありがとうございました…
Masato

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