くりふ

天はすべて許し給う/天が許し給うすべてのくりふのレビュー・感想・評価

4.0
【天が許し給うすべて】

まず邦題が変わった件について。

原題『All That Heaven Allows』である本作、元々は『天はすべて許し給う』でしたが、2007年発売のDVDでは『天が許し給うすべて』となっています。おそらくこれは2006年出版の「サーク・オン・サーク」にある、サーク監督の発言を受けてのものだと思います。

「スタジオは『天が許し給うすべて All That Heaven Allows』というタイトルを大いに気に入りましたね。みんな、欲しいものはぜんぶ手に入る、天はすべてを許し給うという意味だと思ったんですよ。でも、わたしの意図したことはまったく逆で、天が許してくれるのはこれだけっていう意味だったんです。わたし自身に関しても、天はそうとうケチくさいですよ」

貞淑な未亡人とイケメン庭師の恋を描くど・メロドラマに対し、こんなこと言ってるわけです。…やっぱ好きだわこの監督(笑)。

実際、愛の甘味に溺れず、冷静に俯瞰しアイロニーも込める広がりを持つ映画で、視点を変えて何度も楽しめる仕上がりです。

ちなみに同書には、こんな発言も。

「当時のアメリカは、自国は万全で安泰だと感じていて、その快適な成果と制度を守るためにきゅうきゅうとしてましたからね」

本作をみればなるほど、と納得します。こういう背景だから成立したのかと。要するに、世間体という秘密警察に個人が追い詰められてゆくお話ですから。米50年代はゴールデンエイジとも言われたはずなのに…。

様々な切り口・魅力がありますが、まず、夫を失くし子育ても終えた女に居場所がないというホラー映画の側面(笑)。

この偏屈な共同体の中では、女性が個人である前に「役割」としてでないと存在できない。さらにこの環境下では、家族(子供)が容易に凶器に変貌するということ。メロドラマとしては、これらは愛を成就するための障害として立ち塞がるんですが、引いて考えれば実にこっわいことだと思うわけです。

ジェーン・ワイマン演じる件の未亡人キャリーが、まるで『ライフ・オブ・パイ』で独り大海漂流する少年に等しく見えてきます。複数の男に求愛されるモテ熟女なのに、役割から外れると荒波に揉まれるしかない…ように映ってしまう。

そんな「きゅうきゅう」のアンチテーゼとして、恋の相手、ロック・ハドソン演じる庭師ロンの一見、束縛のない生き様…テキストは「ソロー/森の生活」…が対置されます。

しかしこれも処方箋にはならないんですよね。それはロンが選んだ道の一つに過ぎず、結局キャリーはどれかを選ばないといけなくなる。

要は、母でなく妻でもなくなった時、キャリー自身が空っぽであることにどれだけ気づいているかが問題なのかと(外から電気が来ぬと映らぬTVに映ってしまうキャリー…という演出が残酷に的確!)。これ物語中ずっと引きずっていますね。

例によって最後は、機械仕掛けの神がしびれを切らして降臨し、彼女に強制的に、愛の宿題を突きつけますが、どれだけ効くんだろう?

途中、象徴的なやりとりがありました。二人の愛が盛り上がった結果、その収容場所を移そうと、キャリーは「子供たちの家がなくなってしまう」。対して、ロンは…?

一方は容れ物、一方は中身のことを言っています。しかし、この溝がなかなか埋まらない…。

…あー、めんどくさいことをダラダラ書いてしまった。こんなはずじゃなかったのに(笑)。想いは尽きませんがめんどくさいことはこの辺にしておきます。

実際はもっと、単純に楽しめる、よくできたドラマです。

冒頭、街の俯瞰から二人の出会いまでのカメラワークなんて見事です。セリフがわからなくても映像の流れだけで把握できてしまう。

また、雪がいいんですよ雪が、その情緒が。現代の映画ではこんな雪はまったく降らなくなりました。

あと、平和の象徴であるはずの、鳩の使い方。巧い!と膝を打ちましたね。

<2014.4.30記>
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