正義は時に、いやしばしば、いやかなりの確率で間違ってしまう。自由意志なんてものはそもそもなく、群れの全体意思に従うように遺伝子に組み込まれてきたおかげで生き長らえてもいるわけだが。
ルソーからフロム、現在に至るまでおそらくこの先もずっと言及されるように、集団となった人間の誤った意識の問題は付いて回ることだろう。
本作はそのための究極的な語彙として法の支配を宣誓して終わる。まるでそれが最終的な正義とも読み取れてしまう。
しかしこれはどうなのだろう。映画が製作されて80年足らずの間にこの法の支配さえ危うい世界となっている。まさしく法を盾とした、不正義めいた事象がそこらかしこで起きているではないか。そもそも正義の絶対性などとうの昔に壊れているわけで。
消極的なソリューションとし巷間よく言われているように、読書映画芸術などのフィクション文化の力、いわゆる教育でしか解決しないことなのかもしれない。あーあ先は長いってことだ。
せめて自分は「あの人はいい人なんだよね」っていう言葉と、「(例えば)ヘンリーフォンダみたいなルックスだから信頼できる」みたいなことが持つ危険性を改めて噛み締めて生きることとしよう。