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アンティゴネ~ソポクレスの《アンティゴネ》のヘルダーリン訳のブレヒトによる改訂版1948年のysmのネタバレレビュー・内容・結末

5.0

このレビューはネタバレを含みます

 ソフォクレスの『アンティゴネ』という「喪に服すこと」の尊厳についての物語を冷戦終結後に再び提示するという想起的なアナクロニズムは、ブレヒトやベンヤミン、ディディ=ユベルマンの歴史意識そのものでもあり、おそらく近年の『ヴィタリナ』や『サウルの息子』もそれにあたる。同時にウルフの『波』のような詩学によって、各人を孤独な隔たりあいの中で対話させているのもまた、一つの「異化効果」的なアナクロニズムのようにも思える。ある出来事の終結はそれ以前を忘却することを許すものでは決してないということ。アンティゴネの美しい横顔は、そのためには、兄ポリュネイケスが彼自身の死を死ぬ必要があることを果敢に訴えている。自分自身の死を死ぬこと、そして喪に服すこと、これこそが「想起」されるための条件であるからだ。逆説的にも想起されるべきその死者自身の死は「他者」の喪に服す行為によってなされなくてはならない。
 勝者とは勝者ではないし、まして敗者も敗者などではなく、またその逆も有り得ない。だからこそ、自身の息子の死に泣きくれるかつての勝者クレオンも、因果応報的に「敗者」に貶められたのではなく、アンティゴネの主張した「喪に服すこと」の尊厳の倫理無しに、父オイディプスに起因する悲劇とその呪いを免れることはできないということを知ったのだろう。「抑圧された人々の歴史」を再度違うやり方で読みうるものにすること=繰り返し「喪に服すこと」の尊厳、ここにフィクションのなしうる一つの倫理がある。ブレヒトのキャプションの背後に鳴り響く戦闘機のエンジン音は古代ギリシャと戦後を、そして現代を、ベンヤミンがいうところの「星座」という「静止した弁証法」で結びつける。

「過ぎ去ったもののうちに希望の火花をかきたてる才能を宿しているのは、敵が勝利を収めるときには死者もまた無事ではいられないということを知りぬいている、そうした歴史叙述者だけである。しかるにこの敵は、いまにいたるまで勝利していることをやめてはいないのだ」(ベンヤミン『歴史の概念について』)

「さあ、よく考えて。私に手を貸してくれる事は出来ないの?」
「どんな恐ろしいことを? 一体、なにを考えておいでなの?」
「あなたの手を借りたいの、あの亡骸を抱き上げるために」
(ソフォクレス『アンティゴネ』)
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