本作は変化球など1球も投げてこない。
緩急などという言葉を忘れたように、とにかくストレートをど真ん中に投げ込み続ける。
クロースアップで大写しにされた俳優たちが、魂の叫びを歌に乗せる。
そんな歌で全編が埋め尽くされた作り。
映画としては非常に歪なバランスの、超実験作だと思う。
だからこそ、映画好きであればあるほど賛否両論沸き起こるのも不思議ではない。
決して完璧な作品とは言い難い。
だが、欠点をつらつら並べるようなことは野暮だと思ってしまう。
それほど「歌」が持つ圧倒的な破壊力に成すすべがなくなってゆく。
「上手く歌うこと」という作為性が剥ぎ取られた、直録りによる爆発力。
その大爆発の応酬に、涙腺は序盤で決壊。
あとは訳も分からず、抵抗するのを諦め、ただひたすら涙を流すだけ。
この感覚が麻痺していくスパークっぷりは『この空の花 長岡花火物語』以来の映画館体験だ。
個人的にはラストの着地が好きすぎるからこそ、本作が嫌いになれない。
いや、この反則技を嫌いになれるわけがない。
息絶えていくジャン・バルジャンに集い、メロディーを紡いでいく。
それは若き2人の男女の未来を祝福する「讃美歌」として。
あるいは愛によって散っていった人々への「鎮魂歌」として。
今までは余白のあった画面が、人物たちが寄り添って埋まっていく様。
もう誰も孤独ではないことを視覚的に強調してみせる。
しかし、物語はここで幕を閉じない。
ジャン・バルジャンの元へ、迎えに来るフォンティーヌ。
そして2人が教会を抜けると広がる光景。
それは「夢破れた」ものが、命をかけて達成しようとした理想が、具現化された世界だ。
そこで全員で歌い出す「民衆の歌」。
メロディーが刻まれ始めるだけで、心が震えてしまう。
その光景は叶わなかった夢にすぎない。
だが、それらを讃えることこそ、映画が実現し得る「フィクションの力」であろう。
こんなものを最後に見せられてしまったら、もう大拍手せざるを得ない。
実際、上映後に拍手が起こり、場内が明るくなっても涙や嗚咽が止まらない人々が続出している。
そんな希有な体験をしに、映画館に通っている身として、それだけで評価に値する作品なのだ。