映画漬廃人伊波興一

やくたたずの映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

やくたたず(2010年製作の映画)
3.8
自分よりもふた回り近くも年齢を隔てた才能に触れた時、齢(よわい)を超えた今でも、嫉妬出来る(若気)にいささか自嘲気味にほくそ笑みたくなります。

三宅唱『やくたたず』


青春群像が直線的な動きしか出来ぬと高をくくっていた時、らしからぬ曲線的な動きを見せられれば、どう接してみようか?

例えば、この物語なら理想的な映画になるだろうと言う題材など絶対に存在しないと思う。

あるいはこの被写体に、ここからこの距離でカメラを向ければ完璧なショットが成立するというアングル等あるわけがない。

ましてやイイ画面だけをつなぎ合わせれば申し分ない作品になるなんて、とんでもない妄想です。

だから誰がどんな題材を選び、どんな構図にどんな被写体を収め、どんなリズムで編集しようとそれは撮る側の自由な筈。

観ている私たちがあれこれ文句をつける筋合いなどありません。

私たちはそうして完成された作品を面白ければ素直に受け止め、つまらなければ否定し尽くさずとも、多少でも顔をしかめておけばよろしい。

それが映画に対する(寛大さ)(鷹揚さ)というべきもの。

だから撮る側は常に観ている私たちがそんな(寛容さ)(鷹揚さ)を備えて映画に接している事くらいは常に自覚して頂きたい。

私のような悠長な者はいつもそんなふうに呑気に構えていますが、時にはそんな寛容さにさえ、端倪すべかざる鋭角的な視線をこちらに放つような厄介な作家が現れるようです。

それが三宅唱

何しろ
『playback』や『君の鳥はうたえる』は、それ自体が(自由)という言葉さえ窮屈に感じるシロモノ。
映画には何の役割も、使命も、務めもないのだ、と言わんばかりの作品でした。

その三宅監督のデビュー作『やくたたず』を最近やっと観る事が出来ました。

昼夜の別なく大雪原の北海道をうろつく、極端に大きくも小さくもない身体の若者三人は悪事を働くわけでも、遠吠えが多いわけでもないのに、何故か素直にどこかの所属に甘んじらぬまま日々を過ごしてきたに違いありません。

それは若い映画作家たち、そして今なお、無名なままでいる年を重ねた映画作家たちそのままの姿であり、そんな彼らの作品を追いかけ続ける私たち観客の姿でもあります。

劇中の三人の若者たちも、映画の若い作り手たちも、そして私たち観客も普通以上に自由であるはずなのに、自由であり過ぎるが故にいつも互いを意識しながらも、眼と眼があったりすると、眩いばかりの自由さに気づき、大いに照れてしまい、時には卑下さえしたくなり、足早に立ち去るのです。

立ち去る、と言っても踵を返すのはむしろ、私のように年だけを重ねた齢(よわい)の観客たち。

常に嫉妬深く、小心翼々と生きてきた私など、例えば試写室から出てきた廊下でこの若い監督と向かいあえば、居た堪れなくなり逃げ出してしまう事でしょう。