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バウンス ko GALSの堊のレビュー・感想・評価

バウンス ko GALS(1997年製作の映画)
3.8
たいぼくの描線で描かれたような佐藤康恵のかわいさに過呼吸気味になりながら観た。唯一持ってるCUTiEにも佐藤康恵が市川実日子と一緒に載ってて、そういえばHIROMIXの写真がバンバン載ってて、この頃はキューピーのCMで真心ブラザーズを歌ってたりなんかして…。原田眞人は『突入せよ』で若松孝二を切れさせて、『連合赤軍』撮らせたエピソードが有名だけど、これを観た庵野秀明がブチ切れて『ラブ&ポップ』を撮っている事実がなによりも大事なんじゃないだろうか。

『ラブ〜』とはどこまでも骨子は同じなのに撮り方が完全に違っていて、たとえば群衆の中で歩く彼女たちの姿を望遠できっちり収めていて、それはまごうことなき映画なんだけど、かえって彼女たち自身がその他もろもろ多数の「コギャル」と区別がつかなくなっている(音声は一部同時録音で撮られていたりするのだけれど)。これだけでも「わたしたち」ではないのに、原田眞人の特徴はそのオブビートなコメディ感というか、「言わされてる」感や中途半端なアクション(消化器のとこや六本木を疾走する横移動だったり)によって正直かなり興醒めする。こういうのはどこか「ピンク映画によって描出される女子高生たちは果たして表象の次元で考えるべきか」みたいなものを考えさせてくれるのだけれど、やっぱり膨大な量の模造品(雑に山戸監督とか岩切監督を入れてもいいと思う、というか今20代の監督で庵野秀明に衝撃を受けるか立教-蓮實-濱口のいわゆるシネフィルラインに行くかの二択になっているのが面白いというか…)を産出して分水嶺となってる分こちら側は負けているのだけれど、でも決して見る価値のない「悪い映画」なのかというとそういうわけでもないと思う。たとえば今作には至るところに「世代」のキーワードが導入されてる。『ラブ〜』はそのまま『まごころを君に』のラストシーンから引き継がれた相互理解の問題、「我々は本当に他者と理解できるのか?」(いってしまえばそれって極めて『あさま山荘』な問題=植垣康博の「恋と革命」でもあるんだけど)が引き継がれていて、それは自身のアイデンティティとなる「オタク」と「世界」の問題としても受け止められる(むしろそっちばかりが受け止められているけれど)。でも表層的には岡田斗司夫/山賀博之たちが徹底して政治性を嫌い(BSマンガ夜話での岡田斗司夫から宮谷一彦への「読めなかった」という言葉)、『愛国戦隊』なんてものを作れてしまう(またそれを受け止める当時のオタクたち)なんてものを考えてみてもいいと思う。でもこれが本当に90年代半ばも過ぎて『怨念戦隊』になるとそこに対するアティチュードを表明すること自体が忌避されている気がする(表紙を飾る/飾らない鳥肌実)。
今作の話に戻ると、たとえば『われに撃つ用意あり』のあの最悪だったゴールデン街全共闘ゾンビ桃井かおりが今作ではそのままの役で援助交際をする彼女たちに寄り添っていたり、朝鮮戦争での日本軍の惨虐行為について語る大学教授が出てきたり、「こんなことしてて戦争起こったら負けちゃうよね」なんて岡村靖幸の引用めいたセリフが飛び出してきたりする。それは本当に醜い傲慢でしかないと言い切りたいし、佐々木譲的な意味での総括(大塚英志が『彼女たちの連合赤軍』で批判した『光の雨』(もちろん原作の)のラストシーンを思い出してほしい)が悪目立ちして、なんとなく上辺だけをなぞっただけとしか思えない彼女たちの別れ/旅立ちはあまりにもクリシェでしかない。もちろん樋口真嗣meets尾上克郎が大暴れしてるあのラストシーンや三池崇史の『アンドロメディア』のほうがまだ幾分がマシだなと思ったりしたのだけれど、『セーラー服百合族』の斎藤博のおしゃべり(もちろんこれは時代が反映された優雅さから来るものが大きいだろう)がリアルと見なされたのと同じく程度には、大人の側から精一杯「彼女たちの側」に立って作品にしようとする意志を感じる。もはや完全に「わたしたち」ではないからこそ、佐藤康恵と佐藤仁美は何を考えているかわからない。そのお仕着せのセリフでお仕着せのセリフをお仕着せのままにうまく喋れてしまう役所広司(やっぱり黒沢清の『ドッペルゲンガー』を思い出させてくれる狂人ぶりは楽しいのだけど)との会話はどうしようもなくスリリングだ。庵野が河瀬直美の声をあえてナレーションとして採用することでその『かたつもり』で見せたような「だれでもあって、だれかでしかない」声に個人的な言葉を(これが本当にいわゆるポエジーじゃない。昨今のPFFムーラボ映画は微妙に力が入りすぎてる)『ラブ&ポップ』で乗せてるのが、いまだに絶妙なバランスを保ちながら数多の後続の作品に使い古されながらも決して使い古されない輝きに満ちていて、アマチュア監督たちを安直な模倣に誘い続けている。それが今作ではどうか。
主役の出てくる女の子たちはすべて「ほんとう」からは程遠い。だれも内面の言葉で喋ったりなんかしない。でもfixで撮られた画面からはそれがどこで、いつ撮られたかが、どうしようもなく映されている。『ラブ&ポップ』だって度々言及されている冒頭に映り込むコーネリアス『ファンタズマ』の広告があるじゃないか、と言われるかもしれないが、やはりあの作品にはショットが存在しない。109であり、ファンタズマであり、テレクラである。固有名だけが氾濫している。たびたびシネフィルがそこにショットが存在するかしないか、という審美眼で『シンゴジラ』を批評するアレである。はじめから庵野秀明はその査定に乗ろうともしていない。だから今作では倒れ込んだ彼女たちのパンツがあっさりと映される。庵野秀明は数百万円かけてCGで消した。その際に言ったのは「わざとらしさを消したかった」という一言だったと思う(97年ごろのアニメージュで読んだ)。それを映してしまうことこそが(映さないという操作こそが)わざとらしさだと原田眞人なら言うのかもしれない。ここが非常に面白くて、じゃあダンスで見えてしまうパンツをアニメーションで意地がなんでも描いた山本寛は現実をどう思ってるんだ、なんて書き方ができると思う(ドライヤー、増村信者が撮ったアイドル映画『私の優しくない先輩』)。そうした女の子に比して、便所掃除を強制しながら「日本ではこれができるからありがたく思えよ」なんて20万円払ってやらせてるおっさんはどうにもニセモノすぎて「ほんとう」であるかのように見える。原田眞人によって描かれるおっさんたちはいつだって素直だ。「疲れた」と言って疲れた表情をする(あさま山荘前に佇んでいる役所広司、『クライマーズ・ハイ』の堤真一)。でも彼らだってコギャルのことが「わからない」とつぶやく。僕がいちばん感動したのは神社でガキどもが「やいコギャル!」と言い放つシークエンスだ。あまりにも戯画化されたコギャル表象が現実にいる少女たちを迫害する(神社にいる少女二人はいわゆる「コギャル」にさほど見えない)。原田眞人はどんな気持ちでこのリアリティに欠けきった(でもなぜかゆるいユーモアがある)このシークエンスを演出したのだろう。あまりにもまとまらないのでここで終わる。なんか思いついたら書き足す(整理する)。散々指摘されてはいるけど『ラブ&ポップ』を相対化するために。なにより今も撮られつつある『ラブ&ポップ』のただ一本だけを観て作られた模造品がどうして『ラブ&ポップ』に似ないのかを考えるために。
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