絶えず(現代)にとどまり、時代に逆行するどころか先行することさえ自身に固く禁じているルノワールの声
ジャン・ルノワール『ゲームの規則』
素晴らしい映画に賛辞を送りたい時、それを古典的名作にしてしまう事ほど愚かしいことはないと思う。
古典化したり名作にしてしまう事はその作品を過去の歴史の風土に埋没させるに他ならないからです。
埋没された作品は残滓しか残らない。
ですから映画に古典や名作なんて形容詞など無い方がいいに決まってます。
ジャン・ルノワールの『ゲームの規則』が名作であるわけがない。
ましてや古典などと呼称するなどもっての他。
『ゲームの規則』が1939年製作というのは単に便宜上の配慮から出た記号であり、初公開から経過したのは飽くまで80年という歳月であって、映画そのものではありません。
絶えず(現代)にとどまり、時代に逆行するどころか先行することさえ自身に固く禁じている『ゲームの規則』は、飽くまで今年どころか今月やっと公開された新作映画として受け止めればよろしいし、またそうでなくてはなりません。
何故、そこまで言い切れるのかと言えば、『ゲームの規則』という映画は全てに於いて(呆気にとられるから)。
事実、この悲喜こもごもの乱痴気騒ぎの果てに生じた救いようのない悲劇を、何事も無かったかのようにあっさりとたたみ込む所業を目の当たりにして(呆気にとらわれない)方がいたなら、どんな未来の、いえいえどんな惑星から来たのですか?と問いかえしたくなる。
『ゲームの規則』は1939年と呼ばれていた時代に生きていた観客たちには全く相手にされなかったそうです。恐らく当時の方々は現代に生きていなかったようです。
20年を経て完全版が出来てもやはり評判は芳しくなく、日本初公開はそこから更に20年を要したそうですから、このエピソードだけでも、いかに(呆気にとられる)かがお分かり頂ける筈。
最近(呆気にとられた)経験が久しく無かった方も、絶え間なく(呆気にとられたい)も、映画の(現在)を知る意味で必見です。