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ドレミファ娘の血は騒ぐのKuutaのレビュー・感想・評価

ドレミファ娘の血は騒ぐ(1985年製作の映画)
3.3
音が鳴ってストーリーがあって役者が動いてれば映画やろ?という実験。風吹くしスモークもいっぱいでしっかり黒沢清。

にっかつロマンポルノ「女子大生・恥ずかしゼミナール」として制作したが、にっかつからお蔵入りにされ、追加撮影と再編集の末に一般公開された。ビデオ画質のシーンはどれも追加撮影。監督自身は「にっかつロマンポルノの終わりの象徴」と呼び、この時期の映画が、ロマンもポルノも背負えなくなったことの反映だと指摘する。

「なぜと聞くな」のくだりは、人の内面を動機→行動の流れで文学っぽく描くのが苦手で、まず外形的な行動があって、それが動機を形作るor後から動機がついてくるのが映画だろう、という黒沢清の考えをそのまま反映している。実際展開はかなり行き当たりばったりで、面白かったりつまらなかったりを行ったり来たりしている。

先日、ゴダール追悼文で蓮實重彦が触れていた。ニューアカの勃興と共に「日本のゴダール」と祭り上げられた、あの手の空気が正直苦手なので、構造と力とかが背景に映り込む今作には、とっつきづらさを感じている。

完成までの紆余曲折、「恥ずかしゼミナール」のロマンポルノとしての出来栄えが認められず、悔しさを味わった経緯もあり、監督本人も今作の評価のされ方には、一定の距離を置いているようだ。

『黒沢清の映画術』から引用。「一部ではとても受けて、ガンガンそっち方面に行くかというと、全くそんなことはなくて、むしろその方向に危険を感じ、遠ざかるようになっていきました。まあ、僕自身、よくも悪くもこれで充分で、こんなことは一回でいい、これで、こういう作風は一旦やめて、別の方へ行きたいという思いが強くありました」

ラストの音だけの銃撃戦(35ミリで追加撮影した)では、周りは次々に死んでしまい、その上で主人公は大学に帰らない宣言をしている。80年代の軽いノリは、最後に一蹴されている。
「70年代的な挫折感を引きずっていたんですかね。70年代の、何をやってもそう上手くいくわけはないし、最後は撃たれて死ぬんだよ、という感じがまだ残っていたのかもしれません」
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