雪が落ちる白い山。一匹のオオカミが風景の中を横切る。「私」はまだ誰も存在していない。存在しようのない「犯罪者」は雪の中で息を潜める。
「風景の中に流れる意識。風景とは母であり風景とは父である。そこに私は存在しない。しかし突然、未知なる場所で誰かが初めて「私」と発する。 愛はまだ必要ではない。それは愛が生まれる前の話」そう語る彼は誰か?
またオオカミが風景の中を横切る。オオカミが風景の中を二度目に横切るとき、そこで風景は彼を見つけ、彼は風景を見つけ、彼は「私」を見つける。愛の生まれる前、そこに彼はもういない。風景を見つけた彼は同時に愛を見つける、愛に見つけられたと言うべきか。「狂気の愛」、アンドレ・ブルトンならばそれをそう言うのかもしれない。愛は爆音を響かせ、激しい炎と黒い煙を吐きだしながら風景の中に散らばる「私」の誕生を祝い、彼の「完全犯罪」は完成する。
作中、ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」について語られるシーンがあるけれど、雪山、雪の中の家、雪の中をゆれ動く意識、風景そのものを覆い隠す白い雪、上から下へと落ちる雪と下から上へと昇るタバコの煙というイメージのコントラストに、同じくジョイスの「死者たち」という短編の一節を想起させられずにはいられなかった。
《雪の降る音を聞きながら、彼の魂はしだいに知覚を失っていった、雪はかすかな音をたてて宇宙に降り、最後の時の到来のように、かすかな音をたてて、すべての生者たちと死者たちのうえに降りそそいだ。》