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アクト・オブ・キリングのくりふのレビュー・感想・評価

アクト・オブ・キリング(2012年製作の映画)
3.5
【肥溜めの中で生き、臭いを忘れ、映画でそれに気づく】

かなり期待していたものの、実際体験してみると…段々冷めてきてしまった。

本作を生んでしまったアイデアと実行力は凄いし、貴重な記録でどうあれ、より多くみられるべき作品だとも思う。

しかし結局「で、どうすれば次のアンワルを生み出さずに済むの?」が見えてこない。結果でなく原因が知りたい。これは映画の可能性と限界、両端を感じる体験となりました。

誰の中にもアンワルがいる、ということは既にわかっていること。が、同じ条件下でもアンワルに化ける人化けない人が出てくるわけで、その違いは何なのか?アンワルが殺人に手を染めたトリガーは具体的に何で、どうして「彼でないと」いけなかったのか?

…そのあたり、「原因は何?」が見えてこないと対処のしようもなく、これからもアンワルが生まれることは止められない。

次は自分や周囲の人が殺されるかもしれない。或いは油断していると、自分がアンワル化する可能性も?

原因がわかればこんなに苦労しない、ということもわかります(苦笑)。が、そうなると、こういう映画をつくる意義は何だろう?と考えてしまうのですね。

パンフで読みましたが確かに、本作完成後にインドネシア政府が虐殺を認めたり、登場したマツコ・デラックス・ヘルマン(笑)がパンチャシラ青年団を辞め、唯一公式にメダン市で本作を上映したり…という変化はあるようです。

が、この映画の目的は、虐殺を知らしめるだけではないはずです。映画で悪の病根を見つける、なんてことはやっぱり夢物語か?などと考えてしまった。

これは続篇をみたいですね。続というより深篇、というようなものを。本作をみてこわかったー、とか感じても、そのうち忘れるしね。

作中の描写で気になったのは、アンワルのその後です。吐き気はやがておさまるし、悪夢は目覚めれば逃げられる。アンワルはあの後、何か行動を起こしたんだろうか?

パンフにあった「…自責の念に駆られることもあったが、カンプン・コランの虐殺を再現したシーンを含め、ほとんどの場合、彼らは大笑いしながら映像を観ていた」という記述はどう受け取ればいいのだろう。

ところで、『野生のエルザ』の主題歌「Born Free」に乗って、アンワルズを讃えるイメージシーンは爆苦笑ものでしたが、本人たちはやっぱり歌詞の意味、わかっていないのでしょうねえ。

<2014.5.13記>
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