レインウォッチャー

アッテンバーグのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

アッテンバーグ(2010年製作の映画)
3.5
ギリシャの怪人、ヨルゴス・ランティモス案件ということで(今作は製作・出演)やはり一筋縄ではいかない大クセ映画なわけだけれど、余韻には一粒のキュートさが。

主人公のマリーナ(アリアン・ラベド)は、いわゆるアセクシャル(無性愛)の傾向が強い女性で、動物ドキュメンタリー番組ばかり観て日々を過ごしてる。
そんな彼女が、親友に相談してべろchuの手ほどきを受けたりする様と、病で余命わずかな父と「看取り」の時間を過ごす様が並行して映されていく。

ひたすら淡々、淡々と進み、マリーナをはじめ登場人物たちはみな一様に表情や声の抑揚に乏しい。というかその前に、人がとにかく少ない。病院その他建物の中、街の通りであっても、人の気配が極端にカットされていて寒々しい…。
それでいて、工場地帯らしく遠景にもくもくと上がる煙などが、無機質な何かが確かに呼吸していることを伝えている。

そんなダウナーな「プレ喪」的ムードの中で、マリーナの突飛で時にぎりぎり笑えるか笑えないか、のアクションが挟まれる。TVに映った動物を真似したり、友人と道端で奇妙なステップを踏んだり、カフェで出会った男(これがヨルゴっさん)とおずおず「実践」に挑んでみたり。
図らずも、かつてベルクソンが説いた「笑い」と「ぎこちなさ」の関係を実演するようでもある。これは間違いなくコメディだ。

父親との会話も、険悪というわけではないのだけれど、どこか事務的だったり、今それする?みたいな性愛関連の話だったり。
でもマリーナは彼女なりに父のことを考えていて、火葬にしたいという彼の願い(ギリシャでは近年まで合法でなかった)を叶えてあげようともする。

やがて気付かされるのは、彼女らの日々を「観察」する目線を得ていることだ。
それはちょうど、マリーナが観ている動物ドキュメンタリーとよく似ている。動物ごとによってさまざまな生態、求愛の形。動物たちは人間と同じような表情も言語も持たないため、一見しただけではその感情を察知することは難しい。しかし、興味をもって理解しようと「観察」することはできる。

そもそも人間の感情のような同じ尺度で測ろうとすること自体が本当はおこがましいことなのかもしれない。彼らには彼らの秩序が、時間の過ごし方が、共存・共助の形がある。

突き詰めていけば、人間どうしであっても同じことではないだろうか。他者という絶対的な壁を認めて、そのうえで歩み寄ること…父との迫る最後の時間の中で、自らの枠をはみ出して性や情を理解しようともがいたマリーナのように。

マリーナはNYのプロトパンクバンド、Suicideのファン。劇中では、いくつかの楽曲が鳴らされる。そのドライに痙攣するシンセサウンドと、たまに顔を出す意外な程のロマンチシズムは彼女とこの映画によく似合っている。

ぎこちなさと笑いの狭間を観察しつくて見つかるもの。それを、愛の新種と呼んでも良い?