映画漬廃人伊波興一

砂漠の流れ者の映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

砂漠の流れ者(1970年製作の映画)
4.4
ペキンパーが主人公の動きを止めた事で示唆したアメリカ映画=非ハリウッド映画の証


サム・ペキンパー『砂漠の流れ者』

例えばそれは風塵であったり土埃であったり爆風であったりゴミ収集車の廃棄物であったり。
とかくその画面にはいつもどこかで何かが吹き荒んでいる印象が強いペキンパーです。

『ガルシアの首』の復讐も、『コンボイ』の衝突も、『ゲッタウェイ』の逃亡も、『ワイルドパンチ』の強奪も、『わらの犬』の防衛も、『戦争のはらわた』の死闘も。
そんなさまが絶え間なく展開されていくのだから劇中人物たちだけでなく、観ている私たちも気が気ではありません。

ですが多くの作家の作品系譜にもあるようにペキンパーにも逆説的なくらい孤立した作品があったようです。

この『砂漠の流れ者』では反・ペキンパーとも取れるほどジェースン・ロバーツは自分が立ち上げた駅馬車中継所(現代のドライブイン?)から動かず、恨まず、省みず。


持ち物ありったけ奪われた身で水のありかを見つけるまでひたすら灼熱と風塵の砂漠を彷徨う冒頭のクレジット場面、そして自分が見つけた水の在りかを土地登記する場面、娼婦ステラ・スティーブンスに再び会うべくデビット・ワーナーと共に街に乗り込む場面。

この三つの場面以外は想像し難いほど(定住)に甘んじてます。

それはこの映画の中心に(教会)が存在するから。

故 淀川長治さんがマカロニウェスタンを皮肉った名言を真っ先に思い出しました。

(マカロニウェスタンには教会と学校が存在しない)

本作の教会とは勿論、主人公ケーブル・ホーグが建てた駅馬車中継所の事。

聖母[マリア]は娼婦ステラ・スティーブンス
牧師はインチキ宣教師デビット・ワーナー

そして信者は駅馬車に乗って立ち寄る猛者たち。

(バカは死ななきゃ直らない。たが直った時は手遅れ)という、劇中のセリフそのままのような色欲と物欲、金欲まみれのクズ達も数多(あまた)紛れこみますが通底しているのは皆が皆、なびく星条旗に象徴された(アメリカ映画)の信者であるという事。

そうでなければ本来自分を瀕死に追い込んだ二人に復讐するためにこの砂漠に居続ける覚悟をした筈なのに、いざ復讐する相手にばったり出会えば
(お前たちのおかげでこの地を手に入れたんだ。今では感謝してるからまた来い)などと言える訳がない。
しかもそんな慈悲を与えた復讐の相手から返り撃ちを喰らうもステラ・スティーブンスとサンフランシスコに行くためには生き残った相手を赦し、中継所の経営権をあっさりくれてやったりする歯痒いくらいの人の良さ。
更にはあろう事か咄嗟にその相手を助けに入った挙句に自動車に轢かれて死に目にあう始末。

こんな展開全てが赦されるのは『砂漠の流れ者』が(ハリウッド映画)でなく、(アメリカ映画)だから、故です。

当然のように最後にはこの(教会)で天に召されます。
インチキ牧師デビット・ワーナーのセリフにある
(どれだけ多くの女と出会うかなんて関係ない。人生を変えるのは1人の女で足りる)まさにそんな女・高貴な娼婦ステラに看取られて。

真のアメリカ映画では娼婦が高貴でなければならない。

このケーブル・ホーグ同様、1人の女のおかげで人生が変わったアメリカ西部劇の主人公ウィリアム・マニー。
その者を演じた『許されざる者』のイーストウッドの放つ(娼婦を人間扱いしろ)という捨て台詞は、明らかに(アメリカ映画)による、(ハリウッド映画)への警笛であったのだなと改めて気づかされるのです。