miyu

0.5ミリのmiyuのネタバレレビュー・内容・結末

0.5ミリ(2014年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

なかなか苦しくなった。なんか、憐れむわけじゃないけど、この本人のような暮らしが、他人事とは思えなかった。

安藤サクラが時々すごく美しく、品のある女性に見えるときがあった。というか、品はあるんだと思う。誰にも。人はどういうときに品を持った生き様が可能なのかな。余裕があれば品を持てる?じゃああの、常に食べててさわのことを姪にちくったヘルパーさんは?

はじめは、ああ老人の孤独を癒すってのもいいかもな、みたいな気になってたが、後半になるにつれてどんどん変わってきた。他人の孤独を自分が癒してあげているようでいて、その他人は実はそれほどの孤独の谷にいるのではなく、これまでの膨大な過去の上にいて、そこにはいろんな人やいろんな示唆がある。だからこそ、癒しているようでいながらそういう、その人の「孤独じゃなさ」が垣間見えたとき、自分の孤独が突き刺さってきてどうしようもなく痛くなる、みたいな。すごくわかる、と思った。
そして最後のほうで、さわの受け止めている孤独の、さわ自身が感じている根拠?理由?は、生まれつき子宮がないこと、ということが明かされる。
これは、子宮ないから妊娠せず、だからこそ性的なサービス提供や暴力受けるようなことをせざるを得なくなったとしても妊娠したりはしない、というような、その方面の危険じゃなさがあるからこその自暴自棄につながる、と考えが広がった。これは「”どうせ”子宮がない”ならば”」という意識につながるが、「”どうせ”女”ならば”」とその状況を、それが苦しかったりしても利用するのが賢明、みたいなこととも同様に考えられる、と思った。

万引きとか故意の故障とか、犯罪の現場を発見してそれを鎮火させるみたいなことをきっかけにしていく。これは、最初のさわが家事を起こすきっかけというか、現場に近かったがそこで起こった人々の死が、自分の本意ではなかったっていうのがひっかけられてるのかな。
そういうふうに、人は罪を犯したくてやってるんじゃなくて、たまたま、みたいなのもある、というのを。正義感でやってるのかな、とか思ってたがそういうことなのかも。

つけこむのが得意な女性であること、それを誇りつつ、相手をちゃんとばかにして自分に呆れながらやってるんだということを思いながらも、でも結局そうやって見下してる自分の目の前の人も十分にすばらしく自らの生活をしてきている、という事実。
そんな、人を蔑んでしか生きられない、何も生産していない自分への絶望。
でもそんな自分でも、その目の前の人はなんだかんだ大事にしてくれて、少しは役に立ったじゃん、という自負も感じたり。
最後の少女に対するような、ピュアに、助けたいという気持ちというか、そんな気持ちを感じてなくても身体が動くような相手、そんなことをする自分、との出会いとか。
ぐらぐらぐらぐらしているような暮らし。

自暴自棄なきもち、人を利用するような、でも自分が利用されているような、でも愛を、過去をもらっているような気持ち。でもそれが年上の男であることによって、みじめさを感じるような、自分が女性であるからこその悔しいものごと。
それらがあるからこその、同性に対する侮辱や同情、連帯。
総じてなんだか悔しい、みたいな。

女性であることを憎むこと、なくそうとしたり逃げたりすることも悔しいけど、じゃあ利用したら楽になれるのかというと全然そうじゃない、どこまでもついてくる。
それに対してこの作品はどう答えたか?
ピュアで素直な愛、学びだけを受け取り、自分の中で自然に出てくる連帯や救いたいという気持ちを全うする、ということなんじゃないかな、

共にいること なのかなあ、

(真の母は、真の祖父と性接触をし、それによって産まれたのが真?片岡家の血しか入ってない、と真の便宜上の父が言っていたため。母は、自分が女性であることを憎んだ。その気持ちを処理しきれず、娘には同じ女性という立場で居てほしくないと思い、一時的な解決にしかならないとわかっていながらも真を男のように育てることにした。ワンピースが赤に染められたのはなぜかな。血のように見えたけど。途中、さわが白バージョンのワンピースを着ていたように見えたのも気になった。それにしても私、やっぱりセクシュアリティの識別みたいなの敏感にできすぎる。真もなんかこれ女の子だろうなあと初めから思っていた。)
miyu

miyu