ナガエ

野火のナガエのレビュー・感想・評価

野火(2014年製作の映画)
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「戦争」の「悲惨さ」は、まだそれなりに知る機会はある。
原爆投下の被害と酷さ、特攻隊として命を落とした人たちの物語、捕虜となって重労働をさせられた者の体験、そういったものは、ドラマや報道、ドキュメンタリーなどで繰り返し語られる。「戦争」というものはこれほどまでに「悲惨」なのだ。だから戦争はしてはいけない。そういう主張は、様々な場面で見かける。

それ自体はとても大切なことだ。それを否定するつもりはまったくない。

しかし、「悲惨さ」以上に、「戦争」をしてはいけない、と思わせるものがあるとしたら、どうだろうか?

「虚しさ」である。

「戦争」はとても「虚しい」。これは、物語でもドキュメンタリーでも、さほど描かれることはない。いや、描かれることはあるのだろうが、「虚しい」は常に「悲惨」とセットに描かれる、と言う方が正確だろうか。

「虚しい」と「悲惨」は、同列で描かれた場合、どうしても「悲惨」に目が行く。僕らはそういう風に教育されている。だから、「虚しい」が描かれていても、「悲惨」ばかりが記憶に残る。そして、「悲惨」だから「戦争」はしてはならない、と繰り返されることになる。

僕は、「戦争」の「虚しさ」のみによって描かれた映画を見た。

肺病を患い、所属していた部隊から追い出され病院に行くも、さらに重症患者の手当え手一杯の病院からも追い出され、部隊と野戦病院を行ったり来たりする不毛な時間を過ごす兵士。

僅かな食料であるイモを盗んで逃げようとして、ボコボコに殴られる兵士。

生き抜くために、現地の住民を脅して食事やマッチを手に入れようとする兵士。

動けなくなり、自ら所持していた手榴弾で自殺する兵士。

生き残るために“猿”を撃って食べる兵士。

木陰で意味不明な言葉を発する兵士。

幽鬼のようにただ彷徨い歩くだけの存在になっている兵士。

そこには、圧倒的な「虚しさ」が、圧倒的な「無意味さ」がある。
何故ならそこに「敵」はいないからだ。

「敵」がいれば戦争に意味がもたらされるか、と聞かれれば、そうではないと答える。
しかし、「敵」がいない戦場は、圧倒的な「無意味さ」しか存在しない、とは断言できる。

この映画では、「敵」はほとんど描かれることはない。
「敵であろう存在」から撃たれることはある。しかしその場合でも、「敵」そのものの存在は映画には映らない。「敵であろう存在」が登場するシーンも、ごく僅かだ。

彼らは飢えと、病気と、人間への不信感と、生き残りたいという欲求と、そうしたものと戦い続けている。

これは何だ?
これこそがきっと、「戦争」の本質なのだろう。

原爆や特攻隊や捕虜などももちろん辛い。そこに人間の命と人生が関わっている以上、戦争に関わるどんな事柄も辛いのは当然だ。しかし、原爆や特攻隊や捕虜などの物語は、「悲惨さ」を伝えることが出来る。そして「悲惨さ」というのは、時を超えて受け継がれていく可能性がとても高いものだ。だから良い、などという結論を導くつもりは決してないのだが、原爆や特攻隊や捕虜などの存在は、起こってしまったどうしようもない過去からなんらかの有意義な意味を取り出せる、そんな対象であるように思えるのだ。

しかし、「虚しさ」「無意味さ」は違う。それらは時を超えて受け継がれる可能性は低い。「悲惨さ」も「虚しさ」も共に人の心を打つが、人は「悲惨さ」に涙し、「虚しさ」からは目を背ける生き物だ。「虚しさ」は、人の心を打ちながらも、長く伝えられる可能性は低い。

当事者の意識も違うだろう。

「悲惨さ」の場合、それを体験した者やその遺族は、その体験を他者に伝えることに前向きであることが多いイメージがある。しかし「虚しさ」の場合、そうはならず、体験した者やその遺族は、口をつぐみたくなってしまうことだろう。

「戦争」の本質が「虚しさ」なのだとして、しかしそれらは後世にさほど伝えられることもなく消えていく運命にある。戦後70年以上を経て、それらの「虚しさ」をまさに体験し、語れる者もごく僅かになってきてしまったことだろう。「戦争」というものがいかに「虚しい」ものであるのかということは、時と共に忘れられていってしまう運命にあるのだ。

だからこそ、この映画には大きな価値がある。これほどまでに「虚しさ」を伝える物語は、そうそう存在しないように思う。

この映画の内容を言葉で説明することはほとんど無意味であるように思う。
何故なら、ありきたりの表現で申し訳ないが、この映画は「体験するもの」だからだ。

フィリピンの自然の美しさ。
そのジャングルの中でせせこましく生きる人間。
静寂と銃声と爆発音の激しいコントラスト。
極限状態にある人間の、絶望さえ通り越した表情。
人間があっさり死んでいく異様な空間。
“人間”として生きていくことの難しさに溢れた戦場という環境。

そういう、文字ではなかなか伝わらない、体験してもらうしかない様々な事柄によって、この映画は成立している。

『俺がお前を殺して食うか?
お前が俺を殺して食うか?
どっちだ?』

こんなやり取りが成立する空間がスクリーンの中で存在していること、そしてその空間は、かつて実際にこの地球上に存在していたこと。そういうことに思いを馳せると、不思議な気分になる。二人がやり合っている理由にも、やり合っているという状態にも、なんの意味もない。しかし人間は、「戦争」に放り込まれると、最終的にこうなってしまう。

こうなってしまうのだ。

自分は大丈夫、という感覚は捨てた方がいいだろう。誰でも、彼らと同じ環境に放り込まれれば、同じようになる。それが人間だ。

戦場に行かない人間が戦争を始める。そして、戦場に行く人間があらゆる「虚しさ」を引き連れる。生き残った者は、その「虚しさ」を引き連れたまま、永遠に悪夢にさいなまれながら生きていくしかない。

『俺が死んだら、ここ、食べてもいいよ』

「戦争」になったら、僕は逃げようと思っている。逃げられないかもしれない。投獄されたり、下手したら殺されたりするかもしれない。しかし、この映画のようになる可能性が僅かでもあるなら、僕は殺されるのだとしてもその可能性から遠ざかっていたい。

「虚しさ」は長いこと受け継がれることはない。しかし「虚しさ」こそが、人を「戦争」から遠ざけると思う。この圧倒的な「虚しさ」を知った者で、それでも戦場に行ってもいい、と思える者は誰一人いないだろう。

日本が「戦争」に突き進んでいくような雰囲気を、特に最近の政治から感じる。油断しているときっと、僕らは「戦争」に巻き込まれてしまうと思う。自身は絶対に戦場に行かない人たちが決めたルールによって、僕ら一般人が、この映画で描かれたような惨状に放り込まれてしまうことになるだろう。

それだけは絶対に御免だ。

僕は、「戦争」になったら、真っ先に逃げる。「戦争をすると決断したトップが運営している国」など、捨ててしまいたいと思う。それまでも、「戦争」になったら逃げたいと思っていたが、その気持ちをこの映画はとてつもないレベルにまで増幅してくれた。

全国民が見るべき映画だ。
ナガエ

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