みゅうちょび

追憶と、踊りながらのみゅうちょびのレビュー・感想・評価

追憶と、踊りながら(2014年製作の映画)
3.3
ベン・ウィショーの白くて細い肩を抱きしめ、柔らかく子供のような髪をそっと撫でたくなる。

不思議な雰囲気を醸し出した映画。ゲイである恋人の面影と現在とのシーンの繋ぎが白日夢からふと我にかえるようで好き。

カンボジア系中国人の高齢の母ジュンをゲイの恋人であるリチャード(ベン・ウィショー)と暮らすため施設に入れてしまった青年カイ。リチャードから母に2人のことを告白し一緒に住めるようにするべきだと促されながらもなかなか告白できずにいた。彼の突然の死によりとり残されたジュンとリチャードだが、ジュンはカイが生前から友達であるリチャードばかり大切にし自分は蔑ろにされていると感じており、会ったことはないがリチャードを嫌っていた。

英語も話せず、日々施設で人と会話することなく過ごすジュンの元に、ある日カイの友人ととしてリチャードが訪れ、彼女の世話をしようとするが…

言葉のわからない国の施設での生活を強いられている不便さなどがあまり感じられないためか、言葉がわからないなりにも白人の男性と寄り添って歩いたりするジュンには少し違和感を覚えるが、一つ一つのシチュエーション毎に淡々と劇のように描かれる手法は実験的で、全てが靄のかかった夢の中のように進展して行くためか居心地良いようにも感じながらも、一触即発的な2人のやりとりには緊迫感もあり、なんとも不思議な感覚であった。

テーマありきで演出が組まれており、極力無駄は排除し、なんとも不思議な世界を作り出している。

言葉というのは、人と繋がるために大切なツールではあるものの、「口は災いの元」でもあるように、時に人を深く傷つけたり、はたまた優しい言葉は人を癒したりもできる。

しかし、心の赴くままに相手に身を委ねたり、相手の匂いや肌の質感、表情、そういった人間の持つ五感こそがこと愛を伝える人同士には不可欠なものであり、言葉は事実を語ることは出来てもそこに隠された真実を語ることは出来ないのだと感じる。

もっとも分かりやすく象徴されるのは、ベタな表現ではあるが、ジュンと高齢の白人男性アランの関係。誰が見ても、この2人は、会話できなかった時は、寄り添ってキスなど交わしていたのに、一度通訳を介して言葉が通じるようになるとみるみる上手くいかなくなる。心で通じ合っていた2人と、言葉によって噛み合わなくなる2人のどちらが真実なのか?

ジュンは、常に眉にしわを寄せ、ありがとうと言っていても、表情だけを見ると、喜んでいるのか、とても分かりにくい女性。
彼女の心は言葉なしでは人が計り知れないものがあるのは確かだが、言葉を使うとさらにちぐはぐに見えるのはなぜだろう?
これはよく考えられた演出で、観ている方は、ジュンが眉をしかめて憎々しい表情で発した言葉を通訳がなんと訳すのかが結構スリリング。通訳された彼女の言葉は本心なの?と考えさせる言葉というもののもどかしさ。

リチャードは、通訳を介すことで、ジュンにカイのことや自分のことなどを最初は言うべきこと言わざるべきことを選別し慎重に伝えようとするが、一度感情的になってしまうと言葉は溢れ、本当に伝えたいことが伝わらない。

ジュンもリチャードも、どちらも互いに伝えたいのは、カイへの愛情。どれだけ深く彼を愛していたかを伝えたいだけなのに。心の中にあるその熱い想いをどう言葉にしたら良いのか。

互いを深く愛しているリチャードとカイが画面に映し出される時、彼らは常に触れ合っている。そして、互いの匂いを確かめ合うように抱き合い口づけを交わす。

言葉が通じることと心が通じることは全く次元の異なることで、愛するものを思い出す時は、その感触やその匂い、そしてその姿や表情という面影。大切なことを伝えようとする時、言葉はツールとなるけれど、そこにある心の全てを言葉という形では語りつくせないのだ。

だからこそ、人は互いに思いやりの心を持って言葉を発することが大切なのだなと感じる。

ジュンは失ったカイの寝室でカイの匂いがしたと言う。でも、その寝室はリチャードとカイの寝室。そこで彼女が感じた匂いは、2人が愛しあい一つになった匂い、つまり、その匂いはカイの匂いでもあり自分を息子の代わりに世話してくれたリチャードの匂いでもあったに違いない。

本作は全体を通して、台詞に至っても「間(ま)」の取り方が独特で、観る人に言葉の一つ一つをしっかりと伝えようとしているかのよう。それをテンポが悪いと感じる人もいるだろうが、私にとっては心地よく、一つ一つのシーンや会話が心に響く「間」であったと思う。

しかし、なによりも際立っていたのは、ベン・ウィショーが演じたリチャードその人だった。
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