脳内金魚

セッションの脳内金魚のネタバレレビュー・内容・結末

セッション(2014年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

 『セッション』を見て、どうして題材としてドラムを選んだのかなと思った。ジャズと言われてパッと思い付く楽器はなんだろうと思ったとき、私はトランペットやピアノが真っ先に思い浮かんだ。実際、普段ジャズと言うジャンルを聴かない層にアンケートを取ってみたとき、果たしてドラム(パーカッション)はどれくらいの順位なんだろうと考えてみた。

 そんなことを思いながら見ていたら、終盤に興味深いシーンがあった。再会したフレッチャーに、ステージ上でアンドリューが報復を受けるシーンだ。件のシーンでは、再会したフレッチャーがアンドリューにジャズフェスへの参加を打診する。しかし、フレッチャーは当日、アンドリューには楽譜を渡していない楽曲を舞台上で演奏し始める。当然アンドリューは全く手も足も出ず、スカウトたちも見ている舞台上で醜態を晒すことになる。屈辱や羞恥心から一旦舞台から逃げ出してしまうアンドリューだが、何を思ったのか再度舞台に戻ってくる。そして、次の楽曲紹介をするフレッチャーを遮る形で演奏を始める。フレッチャーが演奏をするとアンドリューに嘘を吐いていた曲『キャラバン』だ。(フレッチャーの話し振りからして、どうやらこのフェスではアンドリューに伝えていた楽曲は一曲もやらない様子だ)アンドリューの暴走に呆然とするバンドメンバーだが、彼の「合図を出す」と言う言葉に自分たちも演奏に加わっていく。アンドリューのみならずバンドメンバーまでもがフレッチャーを無視したことに怒り狂うフレッチャーだが、結局は後追いの形でバンドを指揮する。

 このシーンで何が興味深いかというと、アンドリューがドラム(パーカッション)だと言うことだ。ところで、わたしは中学から大学までの10年間部活・サークルでオーケストラをしていた。オーケストラにティンパニと言う楽器がある。大抵舞台後方に配置されるお椀型をした太鼓だ。この楽器だが、オーケストラに於いて「第二の指揮者」と言われる。プロオケにて指揮者がやらかしたり公演を急きょ休んだ際、代わりにオケをまとめるのは一般的にコンサートマスター(指揮者の左手(下手)側最前列客席側に座っているヴァイオリン奏者のこと)である。実際、学生オケでも弦トップ(奏者)なんかはコンマスを見て合わせたりする。よく指揮者って演奏中見てるの? と聞かれるが、正直に言えば見ていない。見るのは要所要所で、何となく視界の上の方(楽譜を見ているので)に入っているかなと言う程度だ。あとは事故が起こりやすい箇所(入りが難しいなど)で見るくらいだ。話を戻すが、実際のオケを取りまとめるのは指揮者であり、演奏者側のまとめ役がコンマスである。ではティンパニ(=パーカッション)が第二の指揮者と言われるのはなぜか。ティンパニは大抵舞台全体を見渡せる場所に配置され、物理として全体を見渡せる位置にいる。そして、ティンパニは楽曲のテンポを刻む役割を担っているのだ。先に述べたように、奏者は指揮者を常には見ていない。寧ろアマチュアほど楽譜に没頭し、他のパートとの連携や全体のテンポ感、強弱が狂いがちである。(学生オケに速いテンポの曲を弾かせると、本番は笑えるくらいテンポが速くなると言うのはよくあることだ。で、自分たちの首を絞めて演奏が崩壊する)つまり、如何に指揮者がオケ(バンド)をコントロールしようとしても、奏者に指揮者を見る余裕がなければどうしようもないのだ。対し、ティンパニの音は耳に入る。ここで、ティンパニが正しいテンポを刻むことでオケ全体を正しい方向に戻すのだ。

 正にアンドリューがしたことは指揮者の代わりにバンドをコントロールすることだ。実際、バンドメンバーはそのままではアンドリューの暴走で終わってしまうところを、彼の演奏に乗ることで「名より実」を取った。(この場合の名はフレッチャーのバンドと言う名声)フレッチャーでなくアンドリューと言う名もなき青年のコントロール下に置かれることになるが、そのまま何もしなければ最悪な演奏で終わってしまうところだったのだ。

 なるほど、トランペットでもサックスでもピアノでもなくなぜ「ドラム(パーカッション)」なのか。フレッチャーと言う「指揮者」からコントロールを奪うためかと思わず膝を叩きたくなった。これは、単に「バンド」の支配権と言うだけでなく、「アンドリュー自身」の支配権をフレッチャーから取り戻すと言うことでもあるのだ。散々フレッチャーに「考えろ」と言われた彼が行きついた答えが、あのシーンに集約されているのだ。「自分はフレッチャーのマリオネットでいるのではなく、アンドリュー・ニーマンと言う一人の演奏者だ」と言っているのだ。そう思うと、とても秀逸な脚本だなと思った。


 もちろん、現実にあのような指導はとても肯定は出来ない。でも、オーケストラとピアノと言うクラシック畑を歩んできたわたしには、ジャズはまたクラシックとは異なるものなのかな、とも思った。クラシックは基本的に作曲家の世界をどう表現するかだ。なので、pのところをfにしたり、allegroのところをmoderatoにすることは御法度だ。当然曲を改変することは厳禁だ。ただ、曲の解釈と言うのは昔になるほど資料があるわけではないので、間接的に探っていくことになる。感覚的には憑依とかイタコに近いかもしれない。

 例えば、かの有名なベートーヴェンはピアノと言う楽器が大改良された時代に生きていた人だ。彼のピアノソナタを紐解いていくと、ピアノの改革に合わせて曲の音域(レンジ)が変化している。今まで想像の中でしか表現出来なかったことが、現実に表現できるようになっていったのだ。そんな中、音楽家としては致命的なハンディキャップである難聴を患う。その頃彼は有名な遺書を書いている。そう言った背景を考え演奏するのがクラシックであるが、ジャズは即興演奏が主体である。まぁ、この辺りはわたしはあくまで趣味で音楽をやっているに過ぎず、専門的に勉強したわけではないので間違っている点も多々あろうが。どうも、即興とは言ってもある程度法則や決まりはあるようだが、いわばジャズは作曲家に近いのかもしれない。クラシックにも協奏曲のカデンツァとかはあるが、基本的に作曲家がすでに作っており、本当に即興演奏することはほぼないし。そう考えると、劇中でああも鬼気迫る感じも納得なのだ。正直、クラシックの世界であそこまで狂気の沙汰みたいなのは聞かない。如何に自分の内面を表現するか。そのために何を削ぎ落とすのか。普段クラシック畑にいる自分にはその点も興味深かった。ジャズに入れ込む狂気に関しては、アンドリューもフレッチャーにシンパシーよりもエンパシーを感じていたのかな。それが、あの最後のアイコンタクトなのかな。

 

 案外前半のフレッチャーのガン詰めには心抉られたけれど、中盤くらいからは普通に観られたな、と。どうも、見ていてきついという評価がわたしの中で先行していたので、配信があってもなかな最後まで見られなかったのだが、今回復活上映で見られてよかった。
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