レインウォッチャー

神々のたそがれのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

神々のたそがれ(2013年製作の映画)
3.5
地球より800年ほど文明が遅れた別の惑星、その様子を地球から来た調査員の目線から描く。

ここは地球の中世ヨーロッパと酷似しているのだけれど、その中世とは残念ながらトラックで跳ね飛ばされて転生する「剣と魔法とエルフのチャンネー」の中世ではない。ゴリッゴリのリアル暗黒中世だ。
それはつまりどういうことかといえば、<映画が始まって間もなく映るのがウNコ>ということである。

…あれ?気のせいでなければ、わたし今ウNコって書きましたか?
品行方正なわたしとしては自分の短期記憶が疑わしい。なんて書くべきなんだろう。排泄物、とか気取り過ぎだし、おうんち様、とかカワイコぶりすぎですわよね。

…話を戻そう。
要するに現代の感覚からすれば衛生観念が終わっていて、糞尿含む生活排水は街路に垂れ流し、風呂に入る習慣もなさそうで、狭っ苦しい室内でも生ごみが放置され、人は唾や洟や痰を10秒に一回吐き散らかす。歯?ねェよそんなもん。
建築やインフラも遅れているから、外は泥沼だし中は雨漏り。常にびちゃびちゃのどろどろで行く中世ふしぎ発見3時間スペシャル…

これほど、映画がモノクロであることに感謝したことはない。映ってるそれが糞なのか泥なのか血なのか、ぱっと見よくわからないからだ。むしろ、違いが意味を成さなくなっている、と言った方が正しいだろうか。

いや、流石にやりすぎじゃね?と思ったあなた、それは正解。ここではルネサンスが起こらず、むしろ権力者によって知識人や芸術家が徹底的に排斥され、退化が進んでいるのだ。処刑された人々の死体が、そのへんに洗濯物感覚で吊られて腐っている日常。そのせいか人々は誰もが譫妄状態のようで、突発的な暴力も起こりやすい。

邦題では『神々のたそがれ』なんて詩的な風味になっているけれど、原題は『Hard to Be a God』=神様はつらいよ、だ(原作小説と同題)。
この神とは、調査員の男を指す。彼、ドン・ルマータはこの地で聖人のような扱い(髪型とか髭とかどことなくキリストぽい)を受けている。しかし、あくまで観察者なので、過度な干渉は控えねばならない。地球でも各地で繰り返されてきた歴史の野蛮を目前にしながら何もできない姿は、深い諦念の境地を感じさせるものだ。芸術が絶えたこの世界で、彼が時折あそび鳴らす笛の音が侘しい。

映画は、ドキュメンタリー風な映し方をされている。密着ドン・ルマータ!みたいな感じで、明らかに「撮影者」の存在を意識させるのだ。映るものの主従関係が意図的に薄くされ、同時多発的で未整理の情報量がライブ感と疲労を連れてくる。
その視点はもちろんわたしたちと重なって、この世界への没入感を深めてゆく(深めなくていいのに)。同監督の『フルスタリョフ、車を!』と似た手法だが、より徹底されたハードモードといえる。

今作を通して、伝えたいことの一端はなんとなくわかる。作り手は、明らかにこの惑星と現代の現実を重ねて描こうとしている。

いまの地球に、800年先から来た異星人が混じって観察していないと誰がいえるだろう?彼らは、この映画を観るわたしたちと同じようなリアクションで顔をしかめ鼻をつまみ、吐き気を覚えるのではないか?
そして、こんな世界でも徐々に慣れてくる恐怖。いつしか、わたしたちは映る蛮行の数々を笑い、時には退屈すら覚える自分自身に気付く。その精神は、あれほど醜悪に見えたこの惑星の住人たちと何ら変わることがない、ということ。

ただ、ただですね。流石にコスパが悪すぎやしませんでしょうか、ゲルマン様。
これを作り上げたのはシンプルに尊敬の念しかなく、他では決して体験できない世界があるのは間違いないけれど、製作15年・フィジカルもメンタルも地獄の撮影・さらには最後の仕上げ段階で監督が亡くなってしまう、という三連即死コンボ。そこまでして、また観客にも行のような時間を強いてまで、作るべきだったのでしょうか。

…いや、今の世界を見渡す限り、作るべきだったのだろう。このカオスを遺すことが予言とならぬように、彼は願いを込めたはず。800年かけてでも咀嚼すべきパワーがある、それは確かだ。