サマセット7

エイリアン:コヴェナントのサマセット7のレビュー・感想・評価

エイリアン:コヴェナント(2017年製作の映画)
3.6
「エイリアン」の前日譚「プロメテウス」の続編。
監督は「エイリアン」「 ブレードランナー」「プロメテウス」のリドリー・スコット。
主演は「X-MENファーストジェネレーション」「それでも夜は明ける」「プロメテウス」のマイケル・ファスベンダー。

[あらすじ]
前作プロメテウス号の惨劇から11年後。
植民宇宙船コヴェナント号は、休眠中の入植者やヒトの胎芽と共に、15人の乗組員と1人のアンドロイド・ウォルター(マイケル・ファスベンダー)を乗せて、入植先の惑星オリガエ6に向けて航海中であった。
しかし、偶発的事故により船長が死亡し、船も損壊。修繕中、人類のものと思われる通信を受信する。
発信元に、地球に近似した植民に最適と思われる惑星を発見したコヴェナント号クルーたちは、その惑星に立ち寄ることにする。
が、そこにはかつてのプロメテウス号にまつわる謎と脅威が待っていた…!!

[情報]
1979年の伝説的SFホラー「エイリアン」はシリーズ化したが、第三作、第四作と続く毎に失速。
シリーズの立て直しを図るべく、前作「プロメテウス」は、第一作「エイリアン」の監督リドリー・スコットを再び呼び戻し、「エイリアン」の前日譚を描いた。
プロジェクトとしては、エイリアンの起源と共に人類の起源をも描く、という野心的なものであった。
しかし、ほぼエイリアンは出てこない、という野心的な構成もあり、批評的、売上的に成功とは言い難かった。

今作は起死回生の続編として製作された。
物語としては「プロメテウス」の続きを描き、テーマとしても「プロメテウス」と接続する野心的なテーマを描くが、他方で作品の中心には、本編シリーズに回帰したような、SFホラーを据えている。
いわば、「プロメテウス」路線と、本編シリーズの路線の折衷のような作品となっている。

リドリー・スコットは、今作のさらに続きも構想しており、最終的には第一作「エイリアン」に繋がるシリーズとなる、はずだった。

しかし、今作は9700万ドルの予算をかけながら、2億4000万ドル程度の売上に終わり、特にアメリカ国内では製作費にも満たない結果となった。
批評的にも、評価は割れており、特に一般観衆の一部(シリーズに思い入れのある層?)から不評を買った。

結果として、リドリー・スコットが構想した前日譚のシリーズは、プロメテウスと今作までで打ち切りとなってしまった。
シリーズ次作となる「エイリアン・ロムルス」は、「エイリアン」の後の時系列を舞台とするリブート作品である。
「エイリアン」まで続くユニバースの歴史は、今のところ、語られぬまま封印されている。

[見どころ]
マイケル・ファスベンダーの一人二役の怪演!!!
様々な形態で登場するエイリアン!!
ついに、あの形態も!!!
隠棲する怪人の悍ましい秘密、という古典的な怪奇譚とSFのミックス!!
リドリー・スコット過去作を彷彿とさせる非常にSF的なテーマ性!

[感想]
評価の難しい作品だ。

というのは、今作はSFであり、ホラーであり、エイリアンシリーズの一作であり、プロメテウスの続編でもある。その上、巨匠リドリー・スコット監督のSF作品の一つでもある。
そのため、様々な評価軸があり得るのだ。
観た人が、どの評価軸を重視しているか、によって、評価が180度変わる可能性がある。

低く評価する声にも、一定の割合で共感できる。
これらは、主にホラーとして今作を評価する層と、エイリアンシリーズの一作として今作を評価する層ではないか、と推察する。

まず、ホラーとして。
初代エイリアンとエイリアン2のキャラクターは、死なないためにあらゆる手段を講じた。
それでもダメだったから、恐怖があったのだ。

他方で今作はどうか。
誰もが思いつく1番のツッコミどころは、惑星に降り立った際の防疫対策が何らなされていないことだろう。宇宙服も着ない、ヘルメットもしない、マスクもしない、普通の探検服。
そりゃ、死ぬよ。エイリアンいなくても、未知の病原菌とかで、普通に死んでるよ、それは。
キャラクターがバカすぎると、ホラーを純粋に楽しむことは難しくなる。

また、流石にシリーズが続くと、エイリアンが腹を食い破ったりして人を殺戮する、という展開も、マンネリ化してくる、というのもある。
過去作と比べて、血がぶっしゃぶっしゃ出る人体破壊描写は、新機軸で印象に残る。
流石にリドリー・スコットの作る映像は美麗で、超一流だ。
それにしても、今作を超一流のホラー、と言い切るのは難しい。

エイリアンシリーズとしてはどうか。
今作で、過去のシリーズにおいて語られていなかった設定が、一つ明らかになるのだが、シリーズファンとしては、はあ?となる可能性がある。
それも、結構、作品の根本に関わるような部分だったりするので、その設定、要る?となり得る。
少なくとも私は、残念な感じがした。

これらの不評の原因は、一つ。
リドリー・スコット監督の今作で描きたい部分は、ホラーではなく、また、エイリアン、というモンスター自体には、然程の思い入れはない、ということかと思われる。

一方、今作の面白い部分は、SF的な世界観の拡張、プロメテウスからの接続、そして、リドリー・スコット過去作に共通するテーマ性だったりする。
まさしく、スコット卿の関心は今作によって何を語るか、に集中していたのではないか。

今作は、恐らくは興行的理由から様々なエイリアンが手を変え品を変え出てくるが、ストーリー自体の本筋は、アンドロイド・デヴィッドと、植民船の乗組員たちの邂逅とその顛末、にある。
マイケル・ファスベンダーが一人二役で演じる2体のアンドロイドこそが、主人公であり、語りたいテーマを体現する存在である。
その他のキャラクターは、エイリアンも人類も、添え物に過ぎない、とすら言える。

デヴィッドとは、前作プロメテウス号に搭乗していたアンドロイドであり、前作でもミステリアスな行動をとっていた。
まさに今作では、その行動原理が明らかになり、今作のテーマとも直結する。

そのテーマは、リドリー・スコット監督の過去作、「 ブレードランナー」「エクソダス神と王」などとも共通する。
すなわち、造物主に対する被造物の超克、という古典的なテーマである。
いかにもリドリー・スコット的な皮肉に満ちた世界観、人間観が窺える。
監督のファンとしては、興味深い部分だ。

マイケル・ファスベンダーの、超人然とした佇まいは、印象に残る。
デヴィッドのキャラクターも、相当面白い。
その人口的に見える瞳に、たしかに映り込む喜悦。
難しい演技のはずだが、人造人間にしか見えないから、凄い。

オープニングと重なるラストの切れ味はなかなかのもの。
さすがはリドリー・スコット。映画が上手い。

とはいえ、ただ無条件に絶賛できる作品か、というと、やはり首を捻る。
そういう、微妙な作品である。

[テーマ考]
前作は、人類こそが、異星人による(特に思い入れのない)被造物に過ぎなかったことを明らかにして、人類の傲慢を冷笑する作品であった。

一方、今作は、造物主としての人類が、被造物であるアンドロイドの手によって、超克されんとする様を描いた作品である。

すなわち、前作と合わせて、「人が神を超えんとして、自らの被造物を作り出し、その傲慢ゆえに滅ぶ」という、一貫したテーマが見える。

このテーマは、リドリー・スコット監督の代表作「 ブレードランナー」と共通するものである。

今作のテーマについては、あの手この手で作中で繰り返し示唆される。
オープニングのデヴィッドの目覚めと開発者との会話。
オープニングとラストで流れる「神々の黄昏」。
デゥヴィッドが言及する「オジマンディアス」。
作中で言及される詩人シェリーと、その妻が「フランケンシュタイン」の作者であること。
デヴィッド(ダビデ)の名前が示唆する、神と人との関係性。

ひょっとすると、迂闊にも防疫や警戒を怠り、次々とエイリアンたちに殺戮されるクルーたちの愚かさもまた、テーマの一部なのかもしれない。

恐らく、今作の最大の問題点は、エイリアンシリーズを観に来た観客たちは、こうした深遠なSF的なテーマ(=リドリー・スコット卿の問題意識)を本当に観たかったのか、ということではないか。
この問いの答えは、今作の評価や成績に出てしまったように思われる。
良質で面白い映画を撮ることと、売れて続けられる映画を撮ることは、似ているようで違う、ということがわかる。

[まとめ]
リドリー・スコット監督の過去作とも共通するテーマを含む壮大なSF作品として構想されたが、シリーズの観客の期待を満たさなかった、不遇の作品。

今作の後、アレやコレやがどうなったのか。
いつか文字ベースでいいので、公開していただきたいものだ。

当然、シリーズ最新作、ロムルスも見てみたい。