青乃雲

イマジンの青乃雲のレビュー・感想・評価

イマジン(2012年製作の映画)
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すべての映画作品がそうであるかもしれないように、本来的な意味でのエロティシズムに満ちた作品だった。

男優がセクシーな髭面のイケメンだったからでもなく(もちろんそれも重要ながら)、女優がミニワンピの美脚や三角ゾーンのチラリズムを披露していたからではなく(もちろんそれも込みで)、エロスの本質は、超越的存在への欲望にあることが、プラトン(紀元前427 - 紀元前347年)からジョルジュ・バタイユ(1897 - 1962年)に至るまで、様々に洞察されている。

そして、ここに描かれる風景を身につまされるように感じた理由は、その1つ1つを自分自身の体験(もしくは日常)として濃密に持っているからであり、また、モチーフがblindness(見えないこと)だったからだろうと思う。

そうした意味では、映画が「映像と音」によって立ち上げようとするものは、すべてエロティシズムの文脈にあると言って良いのかもしれず、全編にわたって、映画が「映像と音」によるものであることを演出した作品でもあった(とても巧みにできている)。

ポルトガルのリスボンに建つ修道院(盲学校)を舞台とするポーランド映画。会話は英語で、ときおりポルトガル語が入る。



1人の青年イアン(エドワード・ホッグ)が、その盲学校の教師として着任するところから映画は始まる。彼は、視覚障害者(盲人)が一般的に用いる杖に頼ることなく、反射する音を頼りに自由に歩くことができる。

しかし、決して見えているわけではない。

このことについて、視覚障害者である側の生徒(患者)たちからは「見えているのではないか」と疑われるいっぽう、障害のない医師たち(盲学校の運営側)からは「見えていないのに」と安全性を疑われることになる。

そのように、見えないこと(blindness)を1つの境界線として、両サイドから疑われる設定がよく効いており、僕たちが直感や信念や洞察によって、何かしらの道を選ぼうとする際には、必ずやってくる状況だろうと思う。また、実際に彼は見えているわけではないため、ときに失敗する(顔の傷が絶えない)。

こうした人物像の究極的なものとして、たとえばイエス・キリストがいる。彼は「神の子」ではあっても、決して「神」ではなかった。

そんな男に、少しずつ心惹かれていく女エヴァ(アレクサンドラ・マリア・ララ)の姿は、女が男に惹かれていく1つの典型(王道)を描いていたように思う。40歳を過ぎてから、心が女子化してきた僕には(同時に男子化も澄みわたるように深まっている)、説得力のある女性像だった。

ここから連れ出してくれる人。わたしに自由と自信を与えてくれる人。きっと女(女性性)にとっての直感や信念や洞察は、必ずといって良いほど、この経路をたどるように思う。そのエヴァが、イアンと共に訪れたカフェに、別の青年(盲学校の生徒)と再びやってくる一連のシーンも、可笑しみと可愛さに満ちていて、好きだった。



そのように、大小さまざまなモチーフを散りばめながら、この映画が「映画になる」ためのモニュメント(像)とモーメント(瞬間)として、1隻の船を用いたのも見事だったように思う。

それは、信(信じること)/不信(信じないこと)との象徴的存在であり、見えること/見えないことのみならず、見えているのに見てないこと/見えていないのに見ていることなど、blindness(見えないこと)に関する様々な機微のいっさいを、映像として、また音声による予感として立ち上げていた。

最終的には、盲学校から去ることになったイアンを、エヴァが追っていくラスト。巨大船舶の真相と、女の心のゆくえが溶け合う、リスボンの路面電車から撮ったラストショットも最高だった。

★ポーランド(ポルトガル、英語)
青乃雲

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