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ウイークエンドのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

ウイークエンド(1967年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

 多分誰かが言っているかもしれないが、この映画は”週末”という名の”終末”を描いている。タイトルの「end week end week end・・・」の赤白青のトリコロールのクレジットは、色ごとに微妙だが動いている。その蠢く週末の物語は、もちろん凄惨なものなのである。

 破壊に次ぐ破壊。ゴダールの憤り、怒りの滲み出た作品。「文法に終わりをを告げに来た、特に映画に」と、劇中で神(らしき存在)が語るように、映画の終わりを告げる映画だった。「これは映画?現実?」「映画だ」「映画?大嘘つき!」という劇中のやりとりは的を射ていて、映画と大嘘つきはこの時イコールで結ばれている。

 移動撮影による感情の増幅を禁じること。「移動撮影はモラルに反する」というゴダールの言葉は、つまり感情を移入させようとするカメラワークの演出の強引さへの批判だと捉えられる。そのせいか、今作品のどの移動ショットも、感情に起因していない。冒頭の部屋でのズームイン/アウトも、感情の揺らぎでもなんでもない、ただのズームイン/アウトなのだ。横移動撮影の多用も、その情景が見えるアトラクション的な楽しみであって、なんら情感を伴っていない。

 また、それで言えば音楽も同様だ。冒頭の部屋での、劇的な音楽は途切れ途切れで、カメラワークとも共鳴しているわけではない。話されるエロティックな会話を盛り上げるわけでもなく、ただずっと違和感を抱かせる。あとはクラクションが煩すぎる笑。現実にも感じるクラクションに対する苛立ちがその効用そのままに用いられる。

 ゴダールに感情はないのか、という問いはDVD特典のパトリス・ルコント監督のインタビューも抱いていた。ルコント監督曰く、ゴダールは古臭いロマン主義を拒否しているということらしい。ルコント監督自身は「移動撮影はモラルに反する」という言葉には批判的だった。しかし、思うに、ゴダールはむしろ、監督が観客の感情を操作すべきでないと考えているのだと思う。そして、そうした強引さを排除し、音も映像もある意味生っぽさを残して提示しているのだ。この映画を語る時、どうしても長くなってしまうのは、その映像と音の全面に出た強烈さ故、ただ見たまましか書けないという事態に陥るからだろうか。

 とは言え、悪意の塊の映画だ。あらゆるシーンに皮肉と絶望と怒りを織り交ぜている。ゴダールはどうやら今作のプロデューサーとの関係が悪く、かなり当てつけのような予算の当て方をしているとなんかの本で読んだ。見る限り予算の大半が、大量に破壊された車に注ぎ込まれているように思える笑。また、ミレーユ・ダルクをプロデューサーに使うように言われたのも気に入っていないらしく、とにかく酷い演出を当てつけにつけたと言われている(ただ、特典のクロード・ミレールのインタビューでは、ゴダールはミレーユに非常に優しかったとも語っている)。「ある夜の出来事」の劣悪パロディもさせられている。

 ちなみに、あの渋滞の一本道のロングロングカットも、途中でわざわざそのロングさを寸断するかのように字幕が入ることで、「超ロングショット!」と銘打って売り出されることを拒否している。プロデューサーは思っただろう、「なんてもったいないことを!」と。

 また、そうしたメタ的な怒りだけに止まらないのは観た者ならわかるだろう。主人公となる夫婦は、お互いに不倫しており、彼らの間を唯一結びつけているのは、父の遺産であるということ。そして、資本主義の権化となった彼らは、事あるごとにその資本主義の悪態を見せつけてくる。倫理も愛もない、あるのは金だけだ。死人の衣服を奪う、死人に道を聞く、御伽の国の住人を燃やす(本を燃やすの戯画)、神にさえ銃を向ける。それはどこか暴力的な笑いに近い喜劇にさえ映る。

 しかし、そんな彼らの世界には、まるで天罰があるかのように見える。神は、車をひつじの群に変え、彼ら夫婦から銃を奪った。また、夫婦の車が鶏を轢き殺す時、映画のフィルムはズレを起こし、直後、事故で彼らの車が炎上しているのが映し出される。同年に、ベルイマンの「仮面/ペルソナ」が公開されているのだが、どちらもこの”フィルムの事故”を作為的に用いている共通点を持つ。彼ら二人の監督の表現しうるものは全く別物だが、この共通点は、両者の監督がフィルムにそうした神性を見出していることだろう。そしてゴダールが、そうした天罰を描くことで、資本主義を軽蔑していることが読み取れる。それでも、その事故が起きて直後の悲鳴が「私のエルメスのバッグが!」であることが、なによりの悲劇だろう。また、フランス革命ぽい衣装に身を包むジャン=ピエール・レオの演説も、観客に向けられたところで、空虚さを拭えないのも悲劇的だった。そんな彼を、電話ボックスで愛を囁く狂人に仕立てるブラックユーモアもイカれてる。

 後半、自壊に自壊を重ねるこの映画は、道行が怪しくなる。ゴミ回収の人たちの演説はあまりにも長すぎるし、尺を埋めるためなのか、劇中の同じカットを再提示している。ラストあたりの革命家達の森のシーンは、先程までの監督の悪意も意思も不明瞭だ。ただそこには、野蛮さ故に森へと回帰するヒッピー的な人々の提示で止まっている。その自然の中では、動物達の屠殺が”まんま”映し出される。その後の人間の死はどうだろうか?革命家は何かの内紛で撃ち合いに。ある女性は死に際、歌を口ずさみ死んでいった。その額の血は明らかに絵の具の赤で、その歌は明らかに死を前にした人のすることではない。映画の歴史が、数々の人の死をロマンチックに描いたことへの反抗が伺える。ご丁寧に「つなぎ間違い」という字幕が三度入る。そして、そんな行き場のないまま、この映画は不意に幕を閉じる。ゴダールの撮影の仕方が、良くも悪くもシナリオなしのいきあたりばったりだから、ラストあたりの迷走は仕方ないのだろう。そうなるとオチは死や自滅になりがちなのだ。彼ら革命家を希望的にも悲観的にも描ききれなかった、ある”息切れ”を感じる。その息切れは、後の作品で再熱するのだが。やはり映画が、未来を描けず映し出される過去だけで構成される性質から、常に到達不可能な点で彼の映画は息絶えるのだろう。

 芸術は、死に続ける性質を持っている。新しい表現形式は、かつての形式を殺して来た。映画もそうである。サイレントはトーキーに殺された。モノクロはカラーに殺された。フィルムはデジタルに殺された。もちろんそうした技術面に伴って表現形式も変遷を遂げる。ゴダールが映画の終わりを今作で告げながら、尚も映画は自壊し続け、過去を殺しては生きている。新しい表現を模索したのではなく、積極的に過去の形式を脱するだけがゴダールの生きる道なのだ。一度も彼は迎合しないし、できない。資本主義を批判したからには、一度だって消費される枠組みに身を委ねるわけにはいかないのだろう。

 そんな昨今は、むしろ資本主義の末期として世の”新しさ”の渇望が増大している。一過性の話題性が物を言うし、あまりの膨大なアーカイブの中で生きていける作品を作ることをはなから諦める者も多いだろう。絵画も死に続けて何年も続いて生きたが、ウォーホルが資本主義へとその価値を委ねた結果、アーティストの確固たる立ち位置は失われた。映画もやはり瀕死だ。終末はまだ来ないが、50年も前からそれは着々と来ている。そしてまた新たな”殺し”がやってくるのだろうか。「鉄屑から見つかった映画」の再来を求める。
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