YT。イタリア語英語字幕。ドキュメンタリー。24-128。
音は、例えば太鼓への一打のような衝撃によってその場所から引き離された分子が、元の位置に戻ろうとする運動なのだ。では歌はどうか。人はどうして歌うのか。
たとえば、歌うことで「愛している」のようなセリフを口にすることができる。メロディーがありリズムがあり、生の言葉を口にしても守られているように感じるからだ。
一方で、歌には言葉がない。あるのはウタであり、それはツグミのウタのように、そこにある自然にすぎない。だとすれば、風の音、動物の鳴き声などと同じで、その場所に結び付けられてものであり、分離することはできない。
歌は時間の感覚も変えてしまう。3時間の旅だとしても、歌を歌えば15分ほどの長さにしか感じない。歌は、その場所を幸せなものにしてくれる。どんなに苦しい労働でも、皆で歌えば、時を早く流し、声は大きくなり、苦しみは喜びに変わる。歌は幸福の度合いが大きくする。
うたはメッセージを入れたビンのようなものだ。思いのほか多くのメッセージを入れて、しかもすばやく運ぶことができる。開ければ、まるで爆弾のように破裂する。
小さい時、寝る前に歌ってくれる母親のおなかに頭をのせれば、その声はまるで海の中に響いているようで、自分が海の中にいるように感じながら、眠りにつくことができた。
昔の人はよく歌った。聞くよりも、歌うことの方が多かった。今は違う。いつでもどこでも音楽は流れているけれど、ただ聞いてばかりで、歌うことがめっきりすくなくなった。
音は共鳴する。空気を抜くと音は聞こえなくなる。
かつて人は大いに歩き、大いに語り、歌った。いまはもう歩かないし、語らないし、歌わない。
第一次世界大戦の軍歌。戦争という今テキストのなかで、歌は憎しみのアナロジーになる。「フランツ(ヨーゼフ1世)に死を、(グリエルモ)オーベルダン万歳」という歌(『オーベルダン讃歌』)を、歌って聞かせてくれた父の思い出。
https://it.wikipedia.org/wiki/Inno_a_Oberdan
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なるほど歌は言葉ではない。言葉からできているけれど、それは何か違うものなのだ。アリーチェ・ロルヴァケルにとって、映画も歌のようなもなのだ。映画はテレビではない。ユーチューブの映像でもない。CMでもない。歌が言葉を使いながら言葉を超えるものであるように、映画もまた映像とセリフと音(楽)を使いながら、それらを超えてゆく。
ナレーションが語る「歌」についての話と白黒の記録映像にはギャップがある。このギャップによって、ぼくたちは歌が言葉を超え、映画が歌や言葉や映像を超えてゆく空間を感じることができる。
ぼくは、ロルヴァケルの一風変わった映画論とみた。みなさんはどうですか?
英語字幕付きはここで鑑賞できます。11分48秒。
https://www.youtube.com/watch?v=itOFr-47dMs