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知らない、ふたりのayatoonのネタバレレビュー・内容・結末

知らない、ふたり(2016年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

「ずっと...あの時のことを考えてしまう。」「ずっと....あの人のことを考えてしまう。」「今日もあの時を、あの人のことを思い出す.....。」そんな、誰もが患ったことがあるであろう、恋の病のどうしようもない側面を、繊細に、丹精に、"純潔"に、掬い上げることを可能にした「恋愛映画」の要因としては、確かに、浮気や複数の同時交際といった不純行為が孕む「悪意」や、「別れる」ことを遅延させる自己中心的な行為を、純化させる程の「善意」あるいは、許容してしまう「優しさ」を持った登場人物らの存在と言動がここでは大きいのだろう。不器用にも映るその優しさ。しかしそこには、この言葉がきっと隠されているのだろう。

"体裁とか、不謹慎とか。
友情とか、家族とか。
生活とか、夢とか。
社会とか、身分とか。
そういう類いのものは
「好き」という気持ちの前では無力だ"

同監督作『こっぴどい猫』(2012)で綴られた究極の回答である。つまり、浮気や複数の同時交際といった不純行為に彼氏/彼女が準じようとも、「好き」という気持ちの前では余りにも無力であり、あらゆる間を跳躍し、それを何となく許容してしまえるのである。だから、何故ここまでして彼/彼女らは優しいのか、それについての疑問は野暮だということをはじめに述べておこう。ついでにいえば、『最低』(2009)をかなり穏やかにしたあのストーキングだって「好き」なのだから仕方ないのであって、例え彼氏/彼女がいようと、関係無く「好き」と告白するのである。そう、今泉監督による作品は、紛れも無い「好き」という気持ちが、如何に、人を揺り動かし、戸惑わせ、夢想に浸らせ、間違いを起こさせるかと、疑いを持って、描写し続ける。そして、「好き」と告げた対象や「他の人も好きだ」と告げた対象との間に隙間と齟齬を生ませ、関係性としては「好き」と伝える以前・以降を比較して、ズレまくっていくのが物語の醍醐味にもなっている。

本作では、そんな対人関係の間に巻き起こるユーモアに合わせて、『サッドティー』(2013)を反芻する様に「自己存在(意義や価値)」を巡る話にもなっている。題名に冠される「知らない、ふたり」が、誰か。というのは誰が、どちらが、正解ということとかは無い筈なのだろうし、結局そこは受け手の判断に任せていると思うのだけれども、案としてまず荒川(芦澤興人)と加奈子(木南晴夏)のふたりはどうだろう。浮気相手の家を訪れる際に事故に出くわし、自分の足を不自由にしてしまい、パートナーの援助を余儀なくされる荒川と、そのパートナーである加奈子。ふたりは、「好き」がひとつ結実する「結婚」を目前に、お互いの本当の気持ちを"知らない"でいた。ここにも浮気をしたことの罪悪感や、「結婚」をすることで人を不自由にしてしまうかもしれないという責任感が漂い、「自己存在」が巡り続けていた。しかし、過去形であるそれより濃厚に思え、「知らない、ふたり」に相応しいなと、腑に落としたのは、恐らく一目惚れで「両思い」となっていたのにも関わらず、互いの気持ちを知らずに、幕を終えたレオン(レン)とソナ(韓英恵)なのだろうなと。偶然にもまたふたりは前者のカップルと同じくして「自己存在」を巡っていることを踏まえ、ふたりだという確信に迫ったのも、幾度として思い出す過去の罪悪感から、僕なんかが幸せになっていいのかと、自分の存在を否定するかの様な者と「私(の存在)が見える?」という問いを続けてる者で、構成されるふたりが、この世界に、自分が今も尚、普通に存在することを「知らない」様な素振りを見せているからなのであります。しかし、そこは然程、重要では無く、大事なのは、そこから「好き」という気持ちが、やはりここでもまた、自分の存在や相手の存在を確かに(許し合って)肯定しながら(好かれるということは大きい)、恋をすることの純朴さと救われるという幸福を改めて讃えていることが、何よりの正しさなのでは無いのでしょうか。そうすれば自ずと、存在を否定し、不確かに生きる彼/彼女も、この世界に地に足を付けて、生き生きと歩いている私を実感するのでは無いかと、ラストで示される、(誰かを思う気持ちの正体とは何なのかを知ることにあたる)希望的な着地点を視て思った訳である。その前進だと思えるのは、ラブレターや連絡先(住所)が記されたメモ、一目惚れした彼と出会った公園を探す為のノートという紙の媒体を用いて、人をしっかり画面内・物語内を足を使って動かせる、歩かせるという当たり前の素晴らしさだろう。無軌道なその行動も、「好き」の前では凄く映えているのです。その中で、人が持ち得るその機能を車椅子に頼ることになる荒川への手の差し伸べ方が美しすぎてたまらないものがあった。その長回し場面でのふたりの演技が巻き起こす引力にもちょっと驚き。

「ずっとあの時を考える」ことを表象する様な反復の構成の(即ち、観客にもまた、ぐるぐると考えを巡らせてしまう)巧みさや、画面の密度・奥行き、その豊かさ、人と人との距離の測り方、音の扱い方についても、凄く充実している。映画を閉じ込めない背景音にはじまり、とにかく、映画としては、とらわれないという自由さがあった。フィックスを多用するのは何時も通りだけれど、生々しく揺れるカメラも幾度と登場し、過去の作品に比べて明らかに視点の方向に偏りが無くなっているのも美点。足にまつわる話だとも思うので、欲張るとするなら、『tarpaulin』(2012)で魅せた、執拗な移動撮影をここで改めて見てみたかった気もする。

※余談ですが、レオンは実は、サンスを追い掛けていたのでは?というホモセクシャルの疑惑が『こっぴどい猫』のせいでずっとあったのですが、普通の方を普通に捉えていいですよね?
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