YasujiOshiba

夫婦の危機のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

夫婦の危機(2006年製作の映画)
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イタリア版DVD。イタリア字幕付きで鑑賞。24-106。モレッティ祭り。

原題は「Il caimano(カイマーノ)」。これは「カイマン鰐(わに)」のことだが、映画のなかに登場する映画原案・脚本のタイトルであり、その脚本のなかでは実業界からメディア王となり政界に進出したシルヴィオ・ベルルスコーニ(1936 - 2023)を指す。

モレッティの映画にはしばしばアクチュアルな政治状況が顔をだす。たとえば共産党の危機を描いた『赤いシュート』(1989)は、ベルリンの壁の崩壊の直前に公開され、その後イタリア共産党が解党(改名)している。この映画『カイマーノ』は2006年3月24日の公開。それは4月9日〜10日に予定されていたイタリア総選挙の直前だ。

 選挙の結果は、2001年から2006年まで第3次・第4次内閣を率いてきたベルルスコーニの右派連合「自由の家」(Casa delle Libertà)が政権から下され、ロマーノ・プロディ率いる左派連合の「ルニオーネ」(L'unione)が勝利、第二次プロディ内閣が成立するというもの。選挙直前に公開されたモレッティの映画の影響がどれほどだったのかはわからない。それでも右派の指導者を強烈に批判する内容は、結果的に政権から引き摺り下ろしたようにも見えてしまう。

 しかし、実際にそんな映画を制作するのは容易なことではない。なにしろ、選挙の直前に与党のトップを批判する作品を作ろうというのだから、誰もが尻込みするのは目に見えている。

 くわえて、この映画はただベルルスコーニを批判するものだけではない。ベルルスコーニ批判の映画を撮る難しさを描こうとする。政治的な映画の制作には政治的な困難がともない、それをそのまま映画のなかで描こうという。そんなの、あまり聞いたことがない試みだ。

 才能とか撮影の困難ではなく、特定の政治状況のなかで、誰に資金を出してもらい、誰に出演してもらうかという困難。それは政治と人間関係と金の問題なのだが、モレッティはいきなりそんなところに切り込むのではなく、いつものように自分のアルターエゴを用意する。

 普段ならば自分自身が演じるのだが、この作品では迷った末にシルヴィオ・オルランドを主役に抜擢すると、このB級映画のプロデューサーであるブルーノの妻パオラにマルゲリータ・ブイ、若い映画作家テレーサに『息子の部屋』(2001)のジャスミン・トリンカを起用。

 映画の冒頭では、ブルーノ/オルランドの制作したB級映画を楽しませてもらえる。なにしろ、ふたりのパオロという映画監督がカメオ出演しているのだ。それがパオロ・ヴィルツィーとパオロ・ソッレンティーノ。そこにマルゲリータ・ブイのヒロインがからんで、東側世界で大暴れするというストーリー。

 ママが出演しているというのでブルーノの息子たちも大好きなのだが、いかんせん、その後彼は映画を制作できていない。かろうじて、アメリカから帰ってきたコロンブスの映画化がすすんでいたのだが、話がうまく進まない。

 そこに、テレーザが「カイマーノ」という原案・脚本を持ち込む。落ち目のブルーノは、よく読もしないでこの原案に飛びつく。アクション映画だと勘違い。よく聞けば、現在の首相であるベルルスコーニを批判する内容。大手の制作会社は尻込みする。今更目新しくはない。誰もが知っていることじゃないかという。

 一方で、スタッフたちは大いに乗り気になる。やがてポーランドのプロデューサーが関心を示し、大物俳優のミケーレ・プラチドの出演が決まり、現場が動き始める。
けれども人間関係と金に政治がからむと、ことはそう簡単には進まない。

 そこは夫婦の関係と同じ。ブルーノ/オルランドとパオラ/ブイの夫婦には9歳と7歳の子供がいる。仲が悪いわけではない。見ている方向が少しずつ違ってきた。彼女は女優ではなく音楽に打ち込みたい。彼は相変わらずの映画制作ざんまいで、大好きなのだがうまくゆかない。だからふたりは別居を考える。

 しかし、どうやったらうまく別居できるのか。その問いはそのまま、どうやればベルルスコーニ批判の描いを制作できるのかという問いと重なる。うまくやりたい。けれど、うまくできるはずがない。

 企画を持ち込んだテレーサはまだ若い。作品に思い込みはあっても、大掛かりな映画を撮るのは初めて。しかも、彼女には赤ちゃんがいる。同性のパートナーと育てているのだが、同性どうしだからといって子育ては簡単なことではない。

 裏切りもある。出演を約束していたミケーレ・プラチドは、子供との生活のためにサバティカルに入るといって役から降りてしまう。有名な主役に降りられれば製作は頓挫せざるをえない。

 打ちひしがれたブルーノは、ある夜、道路を走る15世紀の帆船を見る。シュールな光景に惹きつけられたように後を追ったブルーノは、それが彼が諦めたコロンブス映画の撮影のためだということを知る。プラチドは、ブルーノを裏切って、コロンブスの役に飛びついたのだ。

 もはや「カイマーノ」という映画は頓挫するしかないと見えたとき、それでもブルーノは一部だけでも映画撮ろうと考える。登場するのが俳優としてのナンニ・モレッティ。

 モレッティという登場人物は、「カイマーノ」のオファーを一度は断った。それでも考えなしたのか、あるいは説得されたのだろう。カイマーノことベルルスコーニの裁判シーンを演じてくれるという。

 しかしそれは本格的な映画ではない。ほんのワンシーンだけ。うまくゆけば、映画の出資を見込めるかもしれない。できることをやろう。

 こうして、若きテレーザが監督として初めての「カメラ用意、アクション」の掛け声をかける。圧倒的な存在感でモレッティのカイマーノが動き出す。そしてラストシーン。モレッティならではのゾッとさせる恐ろしさ。

 そこに立ち上がる怪物。イロニーも、軽さもなく、ただただ雄弁に言語の意味を歪曲させ、したがって民主主義を歪めながら、唯一無二であるはずの「自由」(la libertà)に代えて、得体の知れない複数の自由(le libertà)を吐き出す怪物。

 思い出すのは『黄金の夢』のラストに登場する怪物。怪物性をむき出しにしながら、愛するシルヴィアに悲鳴をあげさせ、愛を訴え、逃げる彼女の後を追い、「死にたくないよ」と叫びながら、エンドクレジットの向こう側へ消えてゆく。

 あのときの怪物がここではあらゆる軽やかさを失い、見せかけこそ紳士然だが、そのセリフにはゾッとするほどの悍ましさがある。帰は鬼なりというが、回帰してきたモレッティの怪物は圧倒的に恐ろしい眼差しで、カメラをみつめているのだ。

 突然のホラー。それは冒頭に見せたB級ジャンル映画の恐ろしさを洗練させ、ぞっとする闇を深めながら、人の吐き出した悍(おぞ)ましさを、劇場の外へと「増幅させて広める」(propagando)ように見える。

 そうなのだ。これこそがプロパガンダ映画の正しいあり方なのかもしれない。言うならば、この『カイマーノ』という作品は、撮るべきではないという声に抗い、撮るべきだという声を味方に、政治に闇がひそむこと、ほうっっておけない恐ろしさであることを、正しく普及させるプロパガンダ映画なのだと、ぼくは思う。
 
追記:
今日7月7日、メディアは20時すぎると直ちに東京都知事選挙の当確を出した。現職の勝利、2位にも怪物、かすかな希望は3位。ちらりと姿をみせた日本のカイマーノは、またしても泥沼にもぐって姿を隠すと、闇世界を徘徊しながら、ぼくらは食い物にしてゆくわけだ。
YasujiOshiba

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